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『三の丸(武蔵野御殿南・長屋)』|村翁夜話集所収姫路城門櫓明細書|第一冊・村翁夜話集

「村翁夜話集」は播磨地方の郷土史で近世播磨の地域社会を知る上で欠かせない
基礎的な情報を提供してくれる書物であると言われます。
しかしながら平文で多くの櫓が書かれ、どの部分を示して書いているのかが、
パッと見で分かりにくいという問題があると共に、現在の呼名とは異なっている事が多くあります。
ここでは『三の丸(武蔵野御殿南・長屋)』の部分を抜粋してご紹介します。

 

『三の丸(武蔵野御殿南・長屋)』|村翁夜話集所収姫路城門櫓明細書|第一冊・村翁夜話集

「村翁夜話集」では以下のように書かれています。

管理 現存 現名称 重層 村翁夜話名 村翁夜話集原文 エリア 桁行 桁行(m:参考) 梁行 梁行(m:参考) 備考
133消失(跡)-つノ御櫓同所東方つノ御櫓 桁行五間四尺、梁行三間半、三の丸(武蔵野御殿南)五間四尺10.3三間半6.4明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。
134消失(跡)-御塀同所南通御塀 九拾六間、三の丸(武蔵野御殿南)九十六間174.50.0明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。
135消失(跡)-唐門同東方唐門 桁行五尺、梁行一間一尺五寸、明キ五尺、三の丸(武蔵野御殿南)五尺1.5一間一尺五寸2.3別名「勅使門」、明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。
136消失(跡)-御土蔵同所北方前ノ御門迄御土蔵 桁行十八間四尺五寸、梁行三間、三の丸(武蔵野御殿南)十八間四尺五寸34.1三間5.5明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。
137消失(跡)-前ノ御門同前ノ御門 桁行五間四尺四寸、梁行弐間弐尺、明キ九尺八寸、クヽリ明四尺一寸、三の丸(武蔵野御殿南)五間四尺四寸10.4二間二尺4.2別名「玄関前門」、明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。
138消失(跡)-冠木御門同所外冠木御門 桁行弐間、(-梁行-)袖ノ間一間、明キ一丈一尺九寸、三の丸(武蔵野御殿南)二間3.60.0明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。
139消失(跡)-御長屋前ノ御門続北ノ方御長屋切手御門通折廻黒御門迄、同黒御門より御長屋西ノ方渡御櫓迄 桁行七十三間、梁行弐間二尺、三の丸(西長屋)七十三間132.7二間二尺4.2明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。
140消失(跡)-切手御門切手御門明六尺 桁行五拾四間、梁行弐間一尺五寸、黒御門明九尺五寸、クヽリ明キ三尺五寸、三の丸(西長屋)五十四間98.2二間一尺五寸4.1別名「台所前門」、明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。
141消失(跡)-御土蔵〇切手御門外北ノ方御土蔵 桁行十間半、梁行四間、三の丸(西長屋)十間半19.1四間7.3明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。
142消失(跡)-御土蔵同続北ノ方新御門迄御土蔵 桁行十間半、梁行四間、三の丸(西長屋)十間半19.1四間7.3明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。
143消失(跡)-新御門同新御門 桁行十二間、梁行三間半、明キ一丈弐尺弐寸、クヽリ明キ四尺三寸、三の丸(西長屋)十二間21.8三間半6.4明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。
144消失(跡)-折廻除米御蔵同続北ノ方折廻除米御蔵 桁行四十五間、梁行三間半、三の丸(西長屋)四十五間81.8三間半6.4明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。
145消失(跡)-御長屋〇切手御門外南方御長屋 桁行十一間、梁行弐間一尺五寸、三の丸(西長屋)十一間20.0十一間20.0明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。
146消失(跡)-冠木御門同続北方冠木御門 桁行弐間二尺、明キ六尺五寸、三の丸(西長屋)二間二尺4.20.0明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。
147消失(跡)-御厩同続東方御厩 桁行八間、梁行三間一尺五寸、三の丸(西長屋)八間14.5三間一尺五寸5.9明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。
148消失(跡)-御厩同所南方長屋御門迄御厩 桁行四拾八間、梁行弐間一尺五寸、三の丸(西長屋)四十八間87.3二間一尺五寸4.1明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。
149消失(跡)-長屋御門同長屋御門 桁行四間半、袖間一間半、明キ一丈弐尺、クヽリ四尺一寸、三の丸(西長屋)四間半8.20.0別名「長屋門」、明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。
150消失(跡)-御長屋同所内北ノ方御長屋 桁行十九間、梁行弐間半、内御門明キ八尺、クヽリ三尺、三の丸(西長屋)十九間34.5二間半4.5明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。
151消失(跡)-御長屋同所南方御長屋 桁行拾四間、梁行弐間半、三の丸(西長屋)十四間25.5二間半4.5明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。
152消失(跡)-冠木御門同続東ノ方冠木御門 桁行三間、明キ六尺六寸、三の丸(西長屋)三間5.50.0明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。
153消失(跡)-猿頭塀御門同所南方猿頭塀御門とも廿八間、門明キ五尺六寸、三の丸(西長屋)二十八間50.90.0明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。
154消失(跡)3重太鼓御櫓三重 太鼓御櫓 桁行五間、梁行四間、三の丸(西長屋)五間9.1四間7.3明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。
155消失(跡)-御多門同続東方桐御門迄御多門 桁行拾二間、梁行三間弐尺、三の丸(西長屋)十二間21.8三間二尺6.1明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。
156消失(跡)-桐御門〇同桐御門 桁行拾三間、梁行三間二尺、明キ一丈五尺五寸、クヽリ明キ五尺、三の丸(西長屋)十三間23.6三間二尺7.0別名「桐一ノ門」、明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。

※明キ:扉開口幅を示す。
※クヽリ:脇戸(潜戸・くぐりど)扉開口幅を示す。
※同断:同じこと
※廿間:二十間
※并:ひょう、へい、あわせる、ならぶ
※厩:うまや(廐)


本一覧は筆者の勉強・調査・後の検索を目的に作成したものであり、その正確性を保証するものではありません。
(出典・抜粋引用)第一冊 村翁夜話集所収「姫路城門櫓明細書」|播磨の地誌 福本勇次著『村翁夜話集』刊行会-平成27年1月25日発行

尚、上記一覧内の「桁行(m:参考)」「梁行(m:参考)」は一尺303mm換算として算出したものであり、イメージしやすくする為の参考値です。
また姫路城内では1間は六尺五寸とする説もあり、1間当たりの当時の寸法は明確ではありません。
昭和の大修理では実寸を元にした尺寸法を定めているようですが、その寸法が分かり次第、参考値を更新します。
現時点は参考値を表示しています。
「御塀」は村翁夜話集において長さ(間数)のみが表示され明確に壁の位置を示していません。
暫定的に対象と思われる壁を推測し割り当て、記載していいます。
「御壁」の現在呼称の壁に対する割り当ても、あくまでも参考とお考えください。

現在の姫路城で各櫓に付けられている名前は、その名称で「国重要文化財」の登録も既に行われています。
現在は重要文化財登録の名称で呼ぶのが、正しい呼び方になるものと思っています。
当サイト管理者は「旧名」で呼ぶことや過去の錯誤を無くすことがしたい訳ではありません。
過去文献の調査時に過去名が必要な場合がある為にご紹介をしているに過ぎません。


「村翁夜話集」の記述を順に古地図に当てはめていくと、以下のように解釈できます。

「武蔵野御殿南」エリアの解釈です。

sonnouyowa_o_03

武蔵野御殿南通路・村翁夜話集所収姫路城門櫓明細の配置

「長屋」エリアの解釈です。

sonnouyowa_o_04

武蔵野御殿・長屋・村翁夜話集所収姫路城門櫓明細の配置

※画像は姫路城・西の丸百間廊下内展示の「播州姫路城図(大絵図)」を撮影。

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『三の丸(武蔵野御殿南・長屋)』原文抜粋

以下にこの部分の原文抜粋を記載しておきますので、
別途利用される際に、引用されると便利かもしれません。
「第一冊・村翁夜話集|播磨の地誌 福本勇次著『村翁夜話集』刊行会-平成27年1月25日発行」の記載は必須です。

可能であれば、このURLへの発リンクを頂けますとありがたく存じます。

前ノ御門続北ノ方御長屋切手御門通折廻黒御門迄、
同黒御門より御長屋西ノ方渡御櫓迄 桁行七十三間、梁行弐間弐尺、
切手御門明六尺 桁行五拾四間、梁行弐間一尺五寸、黒御門明九尺五寸、クヽリ明キ三尺五寸、

〇切手御門外北ノ方御土蔵 桁行十間半、梁行四間、
同続北ノ方新御門迄御土蔵 桁行十間半、梁行四間、
同新御門 桁行十二間、梁行三間半、明キ一丈弐尺弐寸、クヽリ明キ四尺三寸、
同続北ノ方折廻除米御蔵 桁行四十五間、梁行三間半、

〇切手御門外南方御長屋 桁行十一間、梁行弐間一尺五寸、
同続北方冠木御門 桁行弐間二尺、明キ六尺五寸、
同続東方御厩 桁行八間、梁行三間一尺五寸、
同所南方長屋御門迄厩 桁行四拾八間、梁行弐間壱尺五寸、
同長屋御門 桁行四間半、袖間一間半、明キ一丈弐尺、クヽリ四尺一寸、
同所内北ノ方御長屋 桁行十九間、梁行弐間半、内御門明キ八尺、クヽリ三尺、
同所南方御長屋 桁行拾四間、梁行弐間半、
同続東ノ方冠木御門 桁行三間、明キ六尺六寸、
同所南方猿頭塀御門とも廿八間、門明キ五尺六寸、
三重 太鼓御櫓 桁行五間、梁行四間、
同続東方桐御門迄御多門 桁行拾二間、梁行三間弐尺、

〇同桐御門 桁行拾三間、梁行三間二尺、明キ一丈五尺五寸、クヽリ明キ五尺、
同所西方冠木御門 桁行三間一尺五寸、明一丈三寸、クヽリ明三尺五寸、袖ノ間一間弐尺、
同所外桜冠木御門 桁行三間一尺五寸、袖ノ間一間一尺、明キ一丈三寸、クヽリ明キ三尺七寸、
同所南方出番所 弐間二壱間半、
同所御塀 三拾四間半、但桐冠木御門左右・桜御門左右とも、
同所外御橋 長拾四間半、横三間六寸、
同所南方腰掛ヶ 桁行十五間、梁行三間、

〇向御屋敷南方ねノ御櫓 桁行折廻九間半、梁行三間一尺五寸、
二重 同所東方なノ御櫓 桁行五間三尺七寸、梁行四間半、
同所東方らノ御櫓 桁行六間五尺、梁行五間半、
同所西方御多門 桁行二間半、梁行四間一尺四寸、
同続北方御多門 桁行三間七寸、梁行同断、
同所傘間 真柱三尺一寸角、桁行十間四尺五寸、梁行八間半、
同所西通御長屋 桁行六拾一間、梁行弐間半、内御門明キ八尺、クヽリ明キ三尺二寸、
同続東ノ御長屋 桁行弐拾一間、梁行四間弐尺、
右同断 桁行十七間一尺、梁行弐間四尺五寸、内御門明キ八尺七寸、クヽリ明キ三尺三寸、
同所々御塀 百九拾五間、但東南之方、

〇上三方西ノ方御米蔵 桁行弐拾三間五尺、梁行三間半、
同所東之方折廻御米蔵 桁行三拾四間半、梁行三間半、

〇御用米南方御米蔵 桁行拾六間、梁行弐間半、
同所西方御米蔵 桁行十間、梁行三間半、
同所北方御米蔵 桁行弐拾七間半、梁行四間半、
同所東方御米蔵 桁行弐拾二間、梁行三間半、
同所入口御門三ヶ所 桁行弐間一尺、明キ六尺、但入口とも、
同所々御塀 五拾五間、

〇菊御門 但表裏之分とも桁行拾間、内三間四方、三重御櫓、梁行六間半、明キ一丈三尺五寸、クヽリ明キ三尺五寸、
同所御番所 桁行三間半、梁行弐間半、
同所冠木御門 桁行弐間、袖間一間一尺五寸、明キ九尺七寸、クヽリ明キ三尺五寸、
同所左右御塀外とも三拾三間、

菊御門東ノ方 二重 〇むノ御櫓 桁行六間、梁行四間、
同所北方御塀 七拾五間、

〇御作事入口御門 桁行弐間半、明キ七尺五寸、
同所御塀百拾七間一尺、但入口御門左右并東南折廻とも、

〇絵図御門 桁行八間、梁行三間弐尺五寸、明キ一丈九寸、クヽリ明キ三尺九寸、
同続東方うノ御櫓 桁行五間弐尺、梁行三間弐尺、
同続南方御多門 桁行五間弐尺、梁行弐間半、
右同断、 桁行四間半、梁行四間、
同断御番所 桁行七間半、梁行弐間、
同所冠木御門 桁行三間半、袖ノ間壱間弐尺、明キ一丈六尺、クヽリ明キ四尺六寸、
同所御番所 桁行四間、梁行弐間、
同所内外御塀 五拾三間半、
同所内外腰掛 桁行八間、梁行二間、

(引用抜粋)第一冊・村翁夜話集|播磨の地誌 福本勇次著『村翁夜話集』刊行会-平成27年1月25日発行

 

補足

「村翁夜話集」には書かれていないが「姫路城史 下巻」には以下のように書かれています。

本城は城主の居館で、敬稱(称)して御本城といつた。本城は元來(来)本丸といふのであるが、城主の居館であるので、これを本城といつたものであらう。三の丸の西端に位し、面積は四千八百七坪半、地形西方に於てやゝ高く、その上に屋形を置き、東側低地並に北側に長屋を建列ね、東側には南、中、北の三箇所に通路を開き、内外二重或いは三重に門を構へ、北側にも一箇所門を開いた。即ち東側の門は外門は低く、内門は高くなつてゐた。
東側の門の内、南門は勅使門中門は外門を長屋門、中、内両門を玄関前門北門は切手門といつた。北側の門は黒門といつた。

勅使門の外門は棟門で桁行三間、明き六尺六寸、内門は唐門で、桁行五尺、梁行一間一尺五寸、明き五尺、屋根を唐破風造にしてゐた。
長屋門は掖門附高麗門で、桁行四間半、袖間一間半、明き十二尺、掖門明き四尺一寸であった。
玄関前門の外門は長屋門の内にあって、これも高麗門で、桁行二間、袖間一間、明き十一尺九寸、前に七段の石階があつた。内門は掖門附櫓門で、桁行五間四尺四寸、梁行二間二尺、明き九尺八寸、掖門明き四尺一寸、前に千鳥形に五段と三段の石階を疊み、南向きに五段の石階を昇り、更に西向に三段の石階を昇るやうになつてゐた。この内外両門の石階を七五三といった。
切手門の外門は棟門で、桁行二間二尺、明き六尺五寸、内門は玄関前門の内門と黒門との間の長屋の一部に開き、明き六尺、屋根は長屋と共通になつてゐた。この切手門の内門は坂になり、石階を疊んでゐた。この坂を女坂といつた
黒門は東北隅折廻長屋と「ヨ」櫓東方渡櫓との間の長屋の東端に開き、柱、冠木、扉など悉く黒く塗つてゐたのでその名があつた。掖門附で、明き九尺五寸、掖門明き三尺五寸、屋根は長屋と共通になつてゐた。

(抜粋引用)第二章 内曲輪 第五節 三の丸|姫路城史 下巻 橋本政次著(昭和二七年一二月一五日発行)/姫路城史刊行會

 

尚、その他のエリアは以下でご確認いただけます。

 


公開日:
最終更新日:2018/02/18

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

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