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『三の丸(向屋敷・上三方・御用御米蔵)』|村翁夜話集所収姫路城門櫓明細書|第一冊・村翁夜話集

「村翁夜話集」は播磨地方の郷土史で近世播磨の地域社会を知る上で欠かせない
基礎的な情報を提供してくれる書物であると言われます。
しかしながら平文で多くの櫓が書かれ、どの部分を示して書いているのかが、
パッと見で分かりにくいという問題があると共に、現在の呼名とは異なっている事が多くあります。
ここでは『三の丸(向屋敷・上三方・御用御米蔵)』の部分を抜粋してご紹介します。

 

『三の丸(向屋敷・上三方・御用御米蔵)』|村翁夜話集所収姫路城門櫓明細書|第一冊・村翁夜話集

「村翁夜話集」の記述を順に古地図に当てはめていくと、以下のように解釈できます。

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向屋敷・上三方・村翁夜話集所収姫路城門櫓明細の配置

※画像は姫路城・西の丸百間廊下内展示の「播州姫路城図(大絵図)」を撮影。

 

「村翁夜話集」では以下のように書かれています。

管理 現存 現名称 重層 村翁夜話名 村翁夜話集原文 エリア 桁行 桁行(m:参考) 梁行 梁行(m:参考) 備考
168消失(跡)-傘間同所傘間 真柱三尺一寸角、桁行十間四尺五寸、梁行八間半、三の丸(向屋敷)十間四尺五寸19.5八間半15.5真柱三尺一寸角の大広間。「唐笠間」とも。明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。
169消失(跡)-西通御長屋同所西通御長屋 桁行六拾一間、梁行弐間半、内御門明キ八尺、クヽリ明キ三尺二寸、三の丸(向屋敷)六十一間110.9二間半4.5明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。
170消失(跡)-東ノ御長屋同続東ノ御長屋 桁行弐拾一間、梁行四間弐尺、三の丸(向屋敷)二十一間38.2四間二尺7.9明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。
171消失(跡)-東ノ御長屋右同断 桁行十七間一尺、梁行弐間四尺五寸、内御門明キ八尺七寸、クヽリ明キ三尺三寸、三の丸(向屋敷)十七間一尺31.2二間四尺五寸5.0明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。
172消失(跡)-御塀同所々御塀 百九拾五間、但東南之方、三の丸(向屋敷)百九十五間354.50.0明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。
173消失(跡)-御米蔵〇上三方西ノ方御米蔵 桁行弐拾三間五尺、梁行三間半、三の丸(上三方)二十三間五尺43.3三間半6.4明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。
174消失(跡)-折廻御米蔵同所東之方折廻御米蔵 桁行三拾四間半、梁行三間半、三の丸(上三方)三十四間半62.7三間半6.4明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。
175消失(跡)-御用米南方御米蔵〇御用米南方御米蔵 桁行拾六間、梁行弐間半、三の丸(御米蔵)十六間29.1二間半4.5明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。
176消失(跡)-御用米西方御米蔵同所西方御米蔵 桁行十間、梁行三間半、三の丸(御米蔵)十間18.2三間半6.4明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。
177消失(跡)-御用米北方御米蔵同所北方御米蔵 桁行弐拾七間半、梁行四間半、三の丸(御米蔵)二十七間半50.0四間半8.2明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。
178消失(跡)-御用米東方御米蔵同所東方御米蔵 桁行弐拾二間、梁行三間半、三の丸(御米蔵)二十二間40.0三間半6.4明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。
179消失(跡)-入口御門三ヶ所同所入口御門三ヶ所 桁行弐間一尺、明キ六尺、但入口とも、三の丸(御米蔵)二間一尺3.90.0明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。
180消失(跡)-御塀同所々御塀 五拾五間、三の丸(御米蔵)五十五間100.00.0明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。
181消失(跡)-菊御門〇菊御門 但表裏之分とも桁行拾間、内三間四方、三重御櫓、梁行六間半、明キ一丈三尺五寸、クヽリ明キ三尺五寸、三の丸(向屋敷)六間半11.8六間半11.8明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。
182消失(跡)-御番所同所御番所 桁行三間半、梁行弐間半、三の丸(向屋敷)三間半6.4二間半4.5明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。
183消失(跡)-冠木御門同所冠木御門 桁行弐間、袖間一間一尺五寸、明キ九尺七寸、クヽリ明キ三尺五寸、三の丸(向屋敷)二間3.60.0明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。
184消失(跡)-御塀同所左右御塀外とも三拾三間、三の丸(向屋敷)三十三間60.00.0明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。
185消失(跡)2重むノ御櫓菊御門東ノ方 二重 〇むノ御櫓 桁行六間、梁行四間、三の丸(向屋敷)六間10.9四間7.3明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。
186消失(跡)-御塀同所北方御塀 七拾五間、三の丸(向屋敷)七十五間136.40.0明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。

※明キ:扉開口幅を示す。
※クヽリ:脇戸(潜戸・くぐりど)扉開口幅を示す。
※同断:同じこと
※廿間:二十間
※并:ひょう、へい、あわせる、ならぶ
※厩:うまや(廐)


本一覧は筆者の勉強・調査・後の検索を目的に作成したものであり、その正確性を保証するものではありません。
(出典・抜粋引用)第一冊 村翁夜話集所収「姫路城門櫓明細書」|播磨の地誌 福本勇次著『村翁夜話集』刊行会-平成27年1月25日発行

尚、上記一覧内の「桁行(m:参考)」「梁行(m:参考)」は一尺303mm換算として算出したものであり、イメージしやすくする為の参考値です。
また姫路城内では1間は六尺五寸とする説もあり、1間当たりの当時の寸法は明確ではありません。
昭和の大修理では実寸を元にした尺寸法を定めているようですが、その寸法が分かり次第、参考値を更新します。
現時点は参考値を表示しています。
「御塀」は村翁夜話集において長さ(間数)のみが表示され明確に壁の位置を示していません。
暫定的に対象と思われる壁を推測し割り当て、記載していいます。
「御壁」の現在呼称の壁に対する割り当ても、あくまでも参考とお考えください。

現在の姫路城で各櫓に付けられている名前は、その名称で「国重要文化財」の登録も既に行われています。
現在は重要文化財登録の名称で呼ぶのが、正しい呼び方になるものと思っています。
当サイト管理者は「旧名」で呼ぶことや過去の錯誤を無くすことがしたい訳ではありません。
過去文献の調査時に過去名が必要な場合がある為にご紹介をしているに過ぎません。


 

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『三の丸(向屋敷・上三方・御用御米蔵)』原文抜粋

以下にこの部分の原文抜粋を記載しておきますので、
別途利用される際に、引用されると便利かもしれません。
「第一冊・村翁夜話集|播磨の地誌 福本勇次著『村翁夜話集』刊行会-平成27年1月25日発行」の記載は必須です。

可能であれば、このURLへの発リンクを頂けますとありがたく存じます。

同所傘間 真柱三尺一寸角、桁行十間四尺五寸、梁行八間半、
同所西通御長屋 桁行六拾一間、梁行弐間半、内御門明キ八尺、クヽリ明キ三尺二寸、
同続東ノ御長屋 桁行弐拾一間、梁行四間弐尺、
右同断 桁行十七間一尺、梁行弐間四尺五寸、内御門明キ八尺七寸、クヽリ明キ三尺三寸、
同所々御塀 百九拾五間、但東南之方、
〇上三方西ノ方御米蔵 桁行弐拾三間五尺、梁行三間半、
同所東之方折廻御米蔵 桁行三拾四間半、梁行三間半、
〇御用米南方御米蔵 桁行拾六間、梁行弐間半、
同所西方御米蔵 桁行十間、梁行三間半、
同所北方御米蔵 桁行弐拾七間半、梁行四間半、
同所東方御米蔵 桁行弐拾二間、梁行三間半、
同所入口御門三ヶ所 桁行弐間一尺、明キ六尺、但入口とも、
同所々御塀 五拾五間、

(引用抜粋)第一冊・村翁夜話集|播磨の地誌 福本勇次著『村翁夜話集』刊行会-平成27年1月25日発行

 

尚、その他のエリアは以下でご確認いただけます。


公開日:
最終更新日:2018/02/18

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

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