「姫路城が戦火を免れて残った理由」が詳細に解説された「この記事」は消さずに後世に遺したい。
2017/12/25
姫路空襲( 1945年〈79 年前〉)でも奇跡的に残った姫路城が、
どのようにして残ったのか?当サイトでも以前、TVインタビューでの証言(曖昧な記憶)を元に紹介しました。
神戸新聞でもそうした証言を基にした姫路空襲と残った姫路城の記録が紹介されています。
実際には空襲をによる被弾をしながらも、戦火を免れた姫路城の不思議と、
ギリギリのところで命懸けで姫路城を守った男たちの勇気が今の姫路城へと繋がっています。
既に読めなくなっている過去の神戸新聞の記事も引用転記(出典は神戸新聞外)して、
様々な記事から残された姫路城の不思議を書き残しておこうと思います。
姫路城が戦火を免れて残った理由が詳細に解説された神戸新聞記事
当サイトでは以下の記事で以前、姫路城が残った理由をご紹介しました。
レーダーに沼地として映った姫路城
B29の空襲を行っていた司令官(不正確)はこのような事を言っていたそうです。
>姫路城の上空はレーダ上では沼地だった。
>ここに焼夷弾を落しても無駄だったから落さなかった。
>(曖昧な記憶 より)※以下記事によれば「司令官」ではなく「B29の機長」の証言でした。
「B29の機長アーサー・トームズさん」 の証言でも『池か湖か、あるいは海か』と判断
偶然に見たTVの話に触れてご紹介しましたが、神戸新聞では以下のように報じています。
(抜粋引用元・全文)神戸新聞NEXT|姫路|城はなぜ残ったか… 姫路大空襲から72年
(Evernote)https://www.evernote.com/shard/s380/sh/97c12d10-4579-4451-a806-15965bf519e7/925003f076a593be3f5f6b6e7cd28d44-前略-
戦後50年目の95年7月。この謎が解き明かされた。
研究者と戦災者の求めに応じ、姫路大空襲に加わったB29の機長アーサー・トームズさん(当時74歳)が初めて姫路の地を訪れた。城を案内しながら、市戦災遺族会会長で高校の英語教諭だった黒田権大さん(88)=同市東延末=は問うた。
「なぜあのとき、城を爆撃しなかったのか」
当時16歳だった黒田さんは7月3日の空襲で祖父母を失った。翌朝、焼けた自宅の先に見えた城の姿を鮮明に覚えていた。
トームズさんは答えた。「私は城があることすら知らなかった。上官から城について何の指示もなかった」さらに、こう語ったという。
「出撃の直前、攻撃目標マップを渡された。赤線で囲んだ目標の北限の上空に差し掛かったとき、レーダーが『水面』の存在を示した。当時のレーダーは水面と陸地の区別しかできず、『池か湖か、あるいは海か』と判断し、焼夷弾を落とさなかった。その赤線の上にあったのが城だった」「水面」は、城を取り囲む堀だった。
トームズさんは、公開講演となった「姫路空襲50周年平和のつどい」でも同様の証言をした。
城が空襲を免れたのは偶然だった-。謎は一応、決着した。だが、攻撃対象や攻撃による効果を詳細に分析していた米軍が、姫路のシンボルとも言える城の存在を把握していなかったのだろうか。黒田さんの心に疑問が残った。
10年ほど前、知人を介してトームズさんに電話をする機会があった黒田さんは再び聞いた。「本当に偶然だったのか?」
トームズさんはそのとき、こう答えたという。
「今、改めて考えると、指令部は城の存在を知っていたかもしれない。その上で、攻撃意図があったか、なかったか、本当のことは私にも分からない」
上記では「焼夷弾を落とさなかった」と語られていますが、
実際には空襲の後の姫路城天守からは、焼夷弾の不発弾が見つかっています。
西の丸は空襲を受け、天守からも発見された「不発焼夷弾」
神戸新聞の記事(原文)は既に閲覧できなくなっていますが、
2chに転記の本文では以下のように書かれています。
※2chって!と思われるでしょうが「ない」ので仕方ありません・・・。
※以下は、2006年7月23日の神戸新聞NEXTによる報道であると推測します。
一九四五年七月の姫路空襲で、姫路城天守閣に焼夷(しょうい)弾が直撃したものの、
不発だったために、炎上を免れていたとみられることが二十二日、
当時、不発弾処理にあたった元士官の証言で明らかになった。天守閣の戦災被害は記録にはないが、
元士官から手記の寄贈を受けた姫路市平和資料館は
「これまで知られていなかった逸話」として、関心を寄せている。姫路市は同年七月三日深夜から四日未明にかけ、
姫路城の南東部を中心とした半径約一・二キロが焼夷弾攻撃にさらされた。
焼失家屋は総戸数の約40%に達したが、姫路城は奇跡的に残った。当時、姫路中部第四十六部隊見習士官で、
不発弾処理の専門将校だった鈴木頼恭(よりやす)さん(81)=岐阜市=の手記によると、
空襲翌日昼ごろ、部隊本部の指令で姫路城内に入ったところ、
大天守最上階南側の床板に焼夷弾の不発弾が横たわっていた。爆発すると、着火した油脂が炸裂(さくれつ)して火災を引き起こすM47百ポンド焼夷弾で、
屋根の軒瓦四枚を吹き飛ばし、窓から斜めに突っ込んだ様子だったという。
信管が通常の型と異なっており、処理の方法が分からず、城外に運び出して爆破した。空襲下の姫路城が生き残った理由については 「米軍が意図的に攻撃対象から外したのでは」との推測もあるが、
空襲に参加した元米軍機長は「回避せよという命令はなく、残ったのは全くの偶然」と証言している。姫路城の被災は、西の丸が焼夷弾を受けたほか、
三の丸にあった鷺城中学校が被弾・炎上した記録があるが、
天守閣の被害は、修理記録も含めて記録にはない。姫路市立城郭研究室は「焼夷弾は空中で散らばるので、西の丸が被弾している以上、 天守に落ちていてもおかしくない。
当時の記録がないのも、混乱の中でやむを得なかったのかも」とみる。
姫路市平和資料館の加古雄三館長は 「奇跡といわれた姫路城残存の陰で、そうした逸話があったということは大変興味深い」
と話している。(森本尚樹)http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sg/0000075765.shtml
(引用)【戦争】 1945年7月、姫路城の大天守最上階南側に焼夷弾が直撃していた
(Evernote)https://www.evernote.com/shard/s380/sh/a8eaeb06-bb1d-45aa-a109-674f3d0014a0/d784ca34a6fbf58dc0fdf39531f8bbf7
(原文とされるURL)http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sg/0000075765.shtml
また以下のような記事も紹介されれています。
少し、どこまでが引用なのかは定かではない書き方になってはいますが。
見習士官、鈴木頼恭さん(不発弾処理の専門将校)の命懸けの不発弾持ち出しが姫路城を守る
発見された焼夷弾の不発弾が天守の最上階で発見され、
「城外に運び出して爆破」されたとされていますが、その運び出し生々しく語った記事もあります。
危険を顧みず、姫路城を守りたい一心で、爆弾を抱えて階段を降りた鈴木さんは、
姫路城を守った人と英雄になってもいい程のご尽力をされた方だと思います。
※以下は、2006年7月23日の神戸新聞NEXTによる報道であると推測します。
姫路城内での不発弾処理の模様を語る鈴木頼恭さん=姫路市
姫路空襲で、姫路城天守閣の不発弾の処理にあたった当時の見習士官、鈴木頼恭さん(81)=岐阜市=が二十二日、姫路城を訪れた。決死の覚悟で焼(しょう)夷(い)弾を担ぎ上げ、複雑な城内から運び出した当時の状況を振り返り、「危険を顧みず不発弾処理にあたった兵隊の存在を知ってほしい」と話した。
鈴木さんは予備士官学校を卒業後、見習士官として二十歳で姫路に配属された。その後、大阪で不発弾処理の五日間の講習を受け、「即席」の専任の将校になった。
七月三日の姫路空襲時は、部隊本部の当直司令として、兵士の避難や消火を指揮した。翌朝、姫路駅の不発弾を処理していると、部隊本部から「姫路城内に不発弾がある」との伝令を受けた。若い兵隊と二人で天守閣最上階に登ると、板間に百ポンド(約四十五キロ)焼夷弾が横たわっていた。実地経験を経て処理には慣れていたので、当初は安心したが、よく観察すると、信管の型が違い、処理の方法が分からなかった。
「間違ってドカンとやってしまったら、城を燃やしてしまう」。鈴木さんは反射的に不発弾を担ぎ上げ、もう一人の兵隊とリレーして細く急な階段を下ろしていった。
駆け付けた他の兵隊と交代で走り続け、城外の広場で爆破。途端に全身の力が抜け、その場にいた全員で大の字になって、たばこに火をつけた。
鈴木さんは「途中で爆発するかもしれないと思うと、運び出している間の長かったこと。若さと責任者意識で動いたが、いまだったら尻込みするだろう」と振り返る。終戦後も不発弾処理の活動を続けた鈴木さんは、帰郷して小学校の教員となった。校長で退任後も児童文学の編集にかかわり、子どもたちに向き合い続けた。戦後六十年の昨年、児童文学研究会の機関誌に手記を寄せ、体験を初めて公表した。
現在は「岐阜・九条の会」の世話人を務めるなど、平和運動にも力を注ぐ。
「当時は、観光客がたくさん訪れている現在の光景など考えられなかった。やっぱり、平和がいい」。天守閣に目を細めながら、鈴木さんは感慨深げだった。(全文引用)反射的に抱えた焼夷弾、細い階段リレー 不発弾処理した鈴木さん | 情報センタ-ふきのとう姫路 – 楽天ブログ
(Evernote)https://www.evernote.com/shard/s380/sh/e8ce97df-dcdc-4386-8029-2122cbc30c65/69508ee869076640d5660cce07a61040
(原文とされるURL)http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sg/0000075759.shtml
この鈴木さんが反射的に担ぎあげて狭く急な大天守の階段を降りてくれた。
この命懸けの行いがあっての現在の姫路城なんですね。
その場にいたら、自分はそんな行いが出来ただろうか・・・と考えさせられます。
大規模爆撃は免れ、本当に偶然が重なって残った姫路城
大規模な爆撃は行わなかったものの、
このように証言からは多少なりとも天守付近では焼夷弾の投下が行われていたことがわかります。
レーダーに「水面」として捉えられたことで投下された焼夷弾が少なくなったこと。
そして1発の着弾した焼夷弾「不発」となったことは、
本当に偶然に偶然が重なって、姫路城は救われ遺されてきたとした考えられません。
多くの人々の守りたいという祈りと願いがそうさせたという非科学的なことも言いたくなるほどに、
クラバウターマンのような守り神が姫路城にはいるのかもしれません。
もちろん姫路市民の努力と祈りも一つの要因
もちろん「姫路市民」によって天守や西の丸櫓などに施された、
黒いネットによる白鷺城の黒鷺化も「姫路城を守りたい想い」として幸を奏したものと思います。
現在でも市民が城の壁にL型の釘を打ち、そこに黒いネットを取り付けたとされる
L型の釘は、姫路城西の丸百間廊下に遺されています。
きな臭い昨今の情勢ですが、
このL型の釘は「二度と戦争はしてはならない」その思いを伝える大切な大切な記録です。
姫路市民が愛する大切な姫路城の壁に釘を打ち付けて傷つけてまでも守りたい。
その思いと心苦しさを考えれば、状況がどんなに過酷だったかが想像できると思います。
今も残る戦争の記憶
姫路城に覆いをした当時の名残を今の「西の丸」で見ることができます。
西の丸の「レの渡櫓(百閒廊下入口付近)」を見上げてみると、
庇のすぐ下辺りに、L字の金物(釘)が何本も出ているのが見えます。このL字の部分をフックに利用して黒いネットを引っかけて覆いをしたと言います。
大天守にもこうした釘が打たれていたようですが現在はすべて取り除かれています。
こんな時代だからこそ、この「L釘」を実際に目で見て、
戦争をあらためて考える機会にされてみてはいかがでしょうか。
このL釘については日経新聞が以下のように報じています。
2015/7/4 日本経済新聞
黒い姫路城、異様さ伝える 戦争遺跡、無言の語り部(5)
今年3月に平成の大修理を終えた姫路城。しっくいの白さが輝きを増し、多くの観光客が訪れる。この白亜の城も戦時中、黒く偽装された。
姫路市立城郭研究室には、大天守の最上層が黒くなった写真が保存されている。1941年(昭和16年)に撮影された。コールタールで黒く染めたわら縄を編んで偽装網をつくり、東西南の3方の外壁につるした。城周辺には師団本部や軍需工場があり、空襲の目標になることを避ける狙いだった。
地元史家がまとめた「姫路城史」などによると、41年9月(昭和16年)、大天守の最上層の外壁に偽装網を試験的に装着した。翌年の5月には大天守の残りの層と3つの小天守の各層に偽装網がかけられた。45年7月(昭和20年)の空襲で三の丸などに焼夷(しょうい)弾が落ちたが、天守などの建築物は奇跡的に損傷を免れた。
今でも、西の丸にある百間廊下には偽装網をかけるために打ち込んだクギが残る。外壁に約20本のL字型に曲がったクギが打ち込まれている。
滋賀県立大学の中井均教授(日本城郭史)は「偽装網で城が本当に隠せると思ったのだろうか。竹やりで爆撃機を落とそうとするような、合理性を欠いた精神主義的なものを感じる」と指摘する。
戦争遺産はそこにあることで、見る者に様々なことを語りかける。戦後70年たち、戦争体験者はさらに減っていく。戦争を語り継ぐ遺産は重みを増していくはずだ。
(引用・全文)黒い姫路城、異様さ伝える 戦争遺跡、無言の語り部(5) :日本経済新聞
(Evernote)https://www.evernote.com/shard/s380/sh/470a924b-2764-4697-81fe-38d180b418be/580ea3c707c00fe6723eabf70f8f93f1
産経新聞では以下のように。
兵庫・姫路空襲から70年 姫路城、戦火逃れ市民を鼓舞
-前略-
「姫路城史」(橋本政次著)などによると、姫路城は白漆喰(しっくい)で塗られた天守閣が敵機の格好の目標になるとして、(昭和)15年から防空対策が議論されるようになった。白壁部分をペンキで塗る案などが検討され、最終的にコールタールで染めたわらの網で天守閣を覆うことが決まった。(昭和)17年1月から5月に網をかけて黒く擬装。その後、その他の櫓や土塀なども擬装網で覆われ、屋根瓦の目地なども着色された。姫路城史は当時の様子を「今までの明るい印象は消失せて、何となく陰鬱(いんうつ)な感覚を与へるやうになつた」と伝える。
姫路市内では6月と7月の2度の空襲で500人以上が死亡し、5万5千人以上が罹災(りさい)した。市街地は灰燼(かいじん)と化した。擬装したことが奏功したかは不明だが、焦土の中に城は残った。
-中略-
黒田さんは姫路戦災死没者遺族会の会長だった平成7年、姫路空襲の爆撃を担った5人の元米軍パイロットが姫路を訪れ、姫路城に案内する機会があった。
その際、黒田さんは元パイロットらに「あなたたちは、なぜ姫路城を破壊しなかったのか」と聞いたが、返ってきた答えは「姫路城が破壊されなかったのは偶然だ」。パイロットの一人は「城があることも事前に聞いていなかったし、機上からはどれが城なのか、わからなかった」と振り返り、城を囲う堀の水面も「湖か何かに見えた」という。
パイロットたちの話では、空襲の指令が出された際、軍から配られた姫路市街地の作戦地図上で、赤インクで線引きされた爆撃範囲のちょうど北端の線上に姫路城があったという。黒田さんは「(野球の)ファウルか、フェアかどちらかわからないようなところに姫路城があったということで、焼かれなかったのは奇跡といえるかもしれない」と語った。
-以下略-
(抜粋引用)兵庫・姫路空襲から70年 姫路城、戦火逃れ市民を鼓舞 – 産経ニュース
(Evernote)https://www.evernote.com/shard/s380/sh/cd25c993-760d-4375-9ebc-b8503dfd3792/5273e470fb9d8b6b32d48915ec97f6fd
こうして戦争の記憶も刻まれている姫路城。
姫路には姫路城だけでなく、全国で唯一の施設である
「太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊塔」があります。
現在まで平和が保たれて平穏に暮らすことができている感謝の気持ちを、
空爆で亡くなられた方々への慰霊するとともに感謝の気持ちを伝えてみるといいかもしれません。
夏のこの季節は、戦争と向き合う大切な季節です。
一度、お越しになってはいかがでしょうか。
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