「振武余光」兵庫県 編/兵庫県(明治37年3月)ー抜粋(1904)
「振武余光」は兵庫県によって明治37年3月(1904 =119 年前)に発行された書物で、
軍事色が強い内容になっているものの、項目の一つとして挙げられた「姫路城」部分には、
姫路城の歴史が非常に細かく精細に書かれていることに驚きました。
昨今では既存の書物の焼き直しで語り継がれているものが多い印象ですが、
こうした古い文献を改めて読んでみる必要があるのではないかと感じます。
「振武余光」兵庫県 編/兵庫県(明治37年3月)
目次には以下のように、おそらく武功を挙げた兵衛の伝説について書かれているようです。
そしてその中には「姫路城」についても書かれています。
しかし「姫路城」とさらっと挙げているように見えて、
内容は非常に緻密で精細に書かれています。
目次
- 一 贈正四位兒島範長之墓
- 一 贈正四位河合屏山小傳
- 一 贈従四位中島太郎兵衛
- 一 贈正五位黒田與一郎小傳
- 一 贈正五位古東領左衛門小傳
- 一 贈正五位秋元正一郎小傳
- 一 贈正五位境野求馬小傳
- 一 贈従五位中條右京小傳
- 一 贈従五位大田六右衛門小傳
- 一 贈従五位伊藤龍太郎小傳
- 一 贈従五位片山九市小傳
- 一 従五位永田伴正小傳
- 一 贈従五位小傳
- 一 官幣大社伊弉諾神社
- 一 日岡御陵
- 一 官幣大神廣田神社
- 一 贈従四位河合惣兵衛之墓竝記念碑
- 一 藥師山招魂記念碑
- 一 姫路城
- 付録
- 一 淡河川疏水沿革誌
ーーーーーー(中略)ーーーーーー
姫路城
元弘二年(1333)後醍醐天皇北條氏ノ爲二隠岐二遷サレ給フ時播磨國司赤松次郎左衛門則村入道圓心護良親王ノ令旨ヲ奉シテ義兵ヲ西播白旗城二招集シ西國ノ道ヲ塞キ自ラ摩耶山二出張シ子息ヲナシテ姫路丘稱名寺ノ堂宇ヲ利用シ小寺賴季ヲシテ之を守ラシム後十數年ヲ經テ後村上天皇正平元年(1347)即チ光明天皇貞和二年(1347)圓心ノ二男筑前守貞範二至リ該稱名寺ノ佛宇ヲ他二移シ(池田輝政ノ時更ラニ今ノ五軒邸二移轉(移転)ス正明寺即チ是ナリ)茲二支砦ヲ築キ中國ヲ扼ス之レ姫路城ノ創築ニシテ姫路城主ノ權輿ナリ而シテ當時其本城ハ白旗山二アリテ姫路ハ僅カニ四町四方ノ藩鎭タリ實に今ヲ去ルコト五百五十七年前トス今其略歴ヲ叙スレバ左ノ如シ
赤松貞範創メ姫路丘二城キシカ後又飾東郡庄山二城ヲ營ミテ之二移リ族小寺賴季ヲシテ當城ヲ守護セシム小寺職治ノ世に至リ嘉吉元年(1441)六月赤松左京太夫滿祐将軍義教ヲ弑シテ當國二奔ル京軍追跡シ大二木ノ山二戰ヒ滿祐自殺シ一族家臣多ク戰死シ職治亦討死ス故ヲ以テ山名宗全播州ヲ押領シテ當城ヲ守ル應仁元年(1467)五月圓心六代ノ孫赤松兵部少輔政則細川勝元二一味シ備前播磨五ヶ所ノ城ヲ攻落シテ播磨ノ牧二復任シ姫路城主トナリ城壘ヲ營補ス居ルコト三年新タニ城壘ヲ置鹽山二築キ移リテ之二居リ當城ハ舊例二依リ小寺豊職ヲシテ守ラシム其後政隆ノ世二至リ御著二城ヲ築キテ移リ居リ後又庄山二移ル是ヨリ先キ備前邑久郡福岡ノ城主黑田左近太夫高政ノ子重隆多可郡黑田ヨリ路城(姫路城の誤植か)二移住シケルカ其子美濃守職隆ト相襲テ當城ヲ管ス時二織田信長秀吉二命シテ播州ヲ伐タシメ西播悉ク麾下二属シ置鹽城主赤松則房ハ阿波德島二赴キ小寺氏ハ備後鞆城二移ル依テ秀吉黒田孝高ヲシテ當城ヲ守ラシム天正八年(1581)秀吉三木城ヲ攻落シ三木釜城二居ル時二孝高秀吉二告ケテ曰ク三木ハ播州偏僻ノ地名将ノ居ル所ニアラス吾居ル所ノ姫路ハ國ノ中央海陸ノ便アリ此國ヲ領センモノハ必ス此地二居ルヘキナリト自ラ退テ妻鹿功山城二移ル於是秀吉三重ノ天守ヲ築キ姫路二移ルコト三年太閤丸即チ今の西ノ丸是ナリ天正十年(1583)西國二赴ク時弟秀長ヲシテ留守セシム後木下家定其子勝忠及家定ノ弟延俊等此城ヲ守リテ慶長五年(1601)二至ル
同年池田三左衛門尉輝政當城ヲ守リ播磨備前淡路ヲ合シテ百万石ヲ領ス慶長十三年(1609)大二城ヲ營ミ五重ノ天守ヲ建テ(今ヲ去ルコト二九六年〔416 年前〕)内郭ヲ擴メ外郭ヲ構ヘ城外二市鄽ヲ立テ町ヲ別ケチ八十八町(米字二取ルト云フ)トナシ八町毎二一ノ門口ヲ造ル内郭總テ十一門アリ即チ野里門、九長門、京口門、鳥居先門、総社門、中ノ門、鵰門、埋門、車門、市ノ橋門、清水門是ナリ此時二至リテ始テ姫路山上ト山下ノ宿村中村國府寺村トヲ併セテ悉ク姫路ト稱シ大二舊格ヲ改ム在城十四年子利隆襲キ其子新太郎光政二至リ元和二年(1617)備前岡山二移ル元和三年(1618)本多美濃守忠政桑名ヨリ入部此時所々ヲ修補シ猶郭外二水湟ヲ堀リ石壁ヲ固クシ且ツ飾磨津二到ル行程一里餘ノ間二河川ヲ鑿チ船路ヲ通ス名ケテ船塲川ト云フ時二長子忠刻徳川将軍家(臺徳院)ノ女婿トナリ別二城内西方二樓臺ヲ構フ是ヲ天樹院丸ト云フ此時二至リ姫府ノ潤色大二進ム忠政卒シ二男政朝襲キ在城八年二シテ卒ス十數代ヲ經テ寛延二年(1750)正月十五日酒井忠知(後改 忠恭 )厩橋ヨリ移封ノ命二接シ同七月二十四日入部ス
忠以、忠道、忠實、忠學、忠寶、忠顯、忠績を經て忠惇二至リテ維新ノ革變アリ一時将軍慶喜二従ヒケルカノ終二恭順ノ意ヲ表シ自ラ江戸二屏キ忠邦ヲシテ後ヲ襲カシム明治二年(1870)忠邦封土ヲ奉還シ仝四年廢藩置縣トナル酒井氏此地ヲ領スルコト百二十三年(123年)赤松貞範築城ヨリ廢藩二至ルマテ五百二十六年(526年)ナリ維新以後陸軍省ノ所轄トナリ第十師團二属シテ尚舊城ノ五重天守閣等ヲ存ス
ーーーーーー(以下略)ーーーーーー
ここでは「秀吉三重ノ天守ヲ築キ姫路二移ルコト三年太閤丸即チ今の西ノ丸是ナリ」と書かれています。
西の丸に「太閤丸」があり、そこに三重の天守を築いたという事です。
「姫路誌」などでは以下のように書かれています。
秀吉この議に従ひ、赤松氏の城趾たる姫山に據り三層の天主閣を築く、後太閤丸といふ、今現に存在して歴史上重要部分を占む、秀吉が三木城を攻めて之を陷れたるは天正八年正月十七日にして姫路城に入りたるは其年の四月八日なりと云ふ、三重の天主閣を造りたるは翌九年にして置鹽城を取崩し其用材を姫山に集めて改築せしものである、
この場合「姫山(現:本丸)」と「鷺山(西の丸)」が、
当時はどちらの・どこの山を指して「姫山」と呼んだかが争点になってきそうで、
「姫山」を「姫路にある山」として言っている可能性も否定出来ないので、
「姫山に據り」をそのまま、現在の天守がある「姫山(現:本丸)」と断定もできないなぁと感じています。
さらに「姫路城誌(大浦濤花著)」には以下の記述も。
秀吉の姫山の舊城を改築して初めて三重の天守閣を築く、是れ卽大閤丸にして今の西丸の地にありしものヽ如し、此時に至り城廓の規模略ぼ定まる、秀吉は居城三年にして、中国征伐に赴き、弟美濃守秀長代つて之に居る、其後、兄肥後守定家、弟右衛門佐勝俊等相嗣ぎ、二十二年當に主たり、
やっぱり「太閤丸=西の丸」かなと。
「元和三年本多美濃守忠政桑名ヨリ入部此時所々ヲ修補シ猶郭外二水湟ヲ堀リ石壁ヲ固クシ且ツ飾磨津二到ル行程一里餘ノ間二河川ヲ鑿チ船路ヲ通ス名ケテ船塲川ト云フ」とあり、
忠政が輝政の作った城郭の周囲を、水濠で囲むと共に、飾磨津迄濠を掘りそれを「船場川」としたことが読み取れます。
秀吉が太閤丸として西の丸(城山)に三重天守を立ててから、輝政が新しく五層天守を姫山に建てたのち、
「城内西方二樓臺ヲ構フ是ヲ天樹院丸ト云フ」とあり、
忠刻の頃には「太閤丸」は「天樹院丸」と名前を変えて呼ばれている可能性があることがわかります。
「城内西方二」を「西の丸」と解釈するのは拡大しすぎな部分もありますが、
忠刻が西の丸の造営をしたことは有名な話です。
今の「西の丸」を「天樹院丸」と解釈するのもあながち間違いではないように感じます。
しかし「秀吉の建てた三層天守は姫山に建てられていた」と
いう話を聞くような気がするのですが、どちらが正しいのだろうかと。
「振武余光」自体が姫路城専門書ではないので、
いつしか埋もれてしまって読まれないようになってしまっただけかもしれない。
これは、微妙に発見のような気がする(笑)
ちゃんと読んでみるものだねぇ。
それは当然で3層の天守が建っている同じ場所に壊して建てるよりも、
別の場所に建てて、既存建築物は後から壊すか材料を取り出しながら壊すのが工程的にスムーズだと思う。
頭のいいであろう、池田輝政が「撤去→再建築」を選ぶと思えないし、
城の再建築を急いでいたのであれば、当然、建築と撤去は並行して進めるだろう。と。
※「太閤丸」こと秀吉の三層天守が、今の西の丸に建てられていたという前提があるわけだけども。
※しかも「姫路市編纂の姫路誌」と「兵庫県編纂の振武余光」で言い分が割れるという、
時の「市と県」の論争になりそうな気もする、そこに「姫路城誌(大浦濤花著)」が県に加担するの図。。。
ずっと気になってたんだよね、秀吉の天守がある場所を壊して、新しく建てるか?と。
非常に姫路城の歴史が細かく精細に書かれているこの文献は、
改めて読んでみる必要があるのではないかと感じます。
ーーーーーー(巻末)ーーーーーー
明治三十七年(1904)三月二十五日印刷
明治三十七年(1904)三月二十八日發行
(非賣品)
兵庫縣
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(出典)317-22 振武余光 兵庫県 編/兵庫県
本書籍は国立国会図書館にて公開されていますので、誰でも読むことができます。
(抜粋引用)国立国会図書館デジタルコレクション – 振武余光
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グレゴリウス暦導入以前の明治以前は原則ユリウス暦を元にして、
グレゴリウス暦に変換し求めた西暦を表示しています。
例はとして以下のようなケースです。
「慶長五年」は以下の日付範囲であるとされています。
グレゴリオ暦:1月1日-1600/2/15、12月31日-1601/2/2
ユリウス暦:1月1日-1600/2/5、12月31日-1601/1/23
もし、本文中に「慶長五年二月二日」という記述があった場合、
それぞれの日付は、1600/3/16(1600/3/5)になりますが、
ここでは一律で最も歴史的に新しい年として「1601」年を表示しています。
※その為、一般の書物にかかれた西暦と表示にズレが発生する場合があります。
※正確性を保証するものではありません。可読性を高めることを目的としています。
※工数3人日の突貫工事で追加した表示ですのでご了承ください。
※バグってるかもしれないので過信はしないで下さい。かなり疲れた。
元号西暦表示の例) 慶長五年(1601) (1600/2/15~1601/2/2)
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公開日:
最終更新日:2018/02/11