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「姫路城誌」大浦濤花著(明治44年7月)-全文(1911)

「姫路城誌・明治四十四年七月 修繕記念」は「大浦濤花」氏による
明治44年(1911 =106 年前)発行の姫路城に関する小冊子です。
姫路城史などでも参考にされ、修復記録などに関する重要な情報を伝えてくれています。
姫路城の歴史を知るうえでは非常に重要な記録を知る事ができる書籍ですので、
改めてじっくり読んだり、調べものをする際にはとても有益な資料です。
以下では既に一般に公開されている本誌を活字に起こしご紹介しているものです。

極力、旧字は旧字のまま起こすように心掛けています。

姫路城誌

明治四十四年(1911)七月 修繕記念

秀吉築城前の姫路城

初めて姫路城を築きたるは、赤松円心の二男貞範なり、時に後村上天皇正平元年(1347)にして、北朝光明院の貞和二年(1347)なり、之より先き、元弘二年(1333)後醍醐天皇、北條高時の爲に隱岐の國に遷され給ふ、時に播磨の國守たりし赤松則村は大塔の宮の令旨じて、義兵を赤穂の白旗山に擧げ、摂津國摩耶山に據りて贓軍を撃破す、後十年、二男赤松貞範姫路を見て要害の地となし、初めて姫山に四丁四方の地を劃し、爰に在りし、稱名寺を他に移して城壘を築城す、是れ姫路城の初めなりとす、

後貞範、飾磨郡庄山の城を築きて之に移り、一族小寺賴秀をして姫路城を守らしむ、賴秀の子景治、孫景重を經て職治に至り、嘉吉元年(1441)赤松滿祏、将軍足利義敎を京都に弑して當國に奔る、官軍追跡して攻め來り、大に戰ひしが滿祏敗れて自殺し、職治亦戰死し、一族多く陣没して殆ど棒滅の有様となりしかば、山名宗全播州を押領して姫路城を守ること十八年、

慶仁元年に至り、赤松円心六代の孫、赤松兵部少輔政則、細川勝元して播磨の五ケ城を攻め降し、遂に播磨守となりて、姫路城に入り、城廓を修築して之に居る、在住三年にして、地を飾西郡置鹽山に相して新城を築き、移つて茲に居り、先例に依り、一族小寺豊職をして當城を守らしむ、爾後三代政隆に至り御着城を築きて之に移り、備前福岡の城主黒田高政の子重隆代つて當城を管す、其子職隆に至り、織田信長、羽柴秀吉をして播磨を討伐せしめ、西播州早く之に降り、置鹽城赤松則房は阿波の徳島に移り、小寺氏は備後の鞆城に移る、

是に於て秀吉、黒田職隆の子、官兵衛孝高をして當城を守らしめ、三木城に別所小三郎長治を攻めて遂に之を下し三木を以て根據の地となさんとす。孝高秀吉に告ぐるに三木は僻陬の地にして名将の居る所にあらず、姫路は中國の咽喉にして、要害無双の地なり、以て中國を制することを得べしと、秀吉この議に從ひ、孝高は退て、妻鹿の功山城に移り、秀吉來つて城を改築す、時に天正八年四月なりき。

 

秀吉築城後の姫路城

秀吉の姫山の舊城を改築して初めて三重の天守閣を築く、是れ大閤丸にして今の西丸の地にありしものヽ如し、此時に至り城廓の規模略ぼ定まる、秀吉は居城三年にして、中国征伐に赴き、弟美濃守秀長代つて之に居る、其後、兄肥後守定家、弟右衛門佐勝俊等相嗣ぎ、二十二年當に主たり、

慶長五年(1601)池田三左衛門輝政、播州五十二万石にぜらるヽに及びて、年(同年)秋参州吉田より姫路城に移り、慶長八年(1604)更に備前三十二万石を加增(加増)せらる、是に於て大いに城廓を改築す、當時姫山の東南近く、宿村、中村、國府寺村の三ヶ村ありしを他に移し、廓外に六十六ヶ所町を設け、翌慶長九年(1605)に至り、五層の天守閣を造営し、城門十一口を設け姫路城の規模大に備はる、十五年に至り更に淡路六万石を加賜せられ、合計九十餘万石となる、輝政居城十四年にして、慶長十八年(1614)癸丑正月四日薨ず、年四十九、輝政死するの前、次男左衛門守忠繼に備前岡山二十八万石を與へ(与え)、三男宮内大輔忠雄に淡路六万石を與へ、淡路洲本に居らしめ、嫡子武藏守利隆をして姫路五十二万千石を領して相績せしむ、利隆居城三年にして、元和二年(1617)六月十三日逝去す、利隆の嫡子新太郎光政、伯父忠繼の跡を繼で岡山城に移る、是に於て、本多美濃守忠政、元和三年(1618)姫路を賜はり、伊勢の桑名より爰に移る、忠政大に城廓を修め、本丸、二の丸、三の丸を築し、内濠、中濠、外濠を設け、石壁を固め、城門を修め、大に其面目を改む、船塲川(船場川)を改築して舟揖を通じ、橋梁を架して往來に便す、現今白鷺城の規模は實に(実に)この時を以て備はりしものなり、忠政居城十五年にして寛永八年(1632)八月十日逝去す、書寫山に葬る、

忠政の長子忠刻早世せしより、二男政朝、寛永九年(1633)龍野より入つて相績す、後政勝、政義等城内に禺居せしが、寛永十六年(1640)四月、赤松氏の後裔松平忠明出羽の山形より入城して、其子直基に傳へしが、慶安二年(1650)八月、榊原忠次當城ぜられ、奥州白河より來城す、忠次文武の才あり、名聲天下に隱れなかりしかば、遂に抽んでられて幕府の大老職に登れり、居城十七年にして、寛文五年(1666)三月九日逝去せり、位山に葬る、其子政房相績せしか、孫政倫の時に至り、越後の村上に移る、

天和二年(1683)、本多中務大輔政武、奥州福嶋より、當城に移りしが、寛永元年(1624)八月、元の城主榊原政倫の子政邦、越後村上より再び當城主となる、子政祐、政岑相嗣ぎしが、寛保二年(1743)六月、松平直矩の孫、大和守義知奥州白河より入城し、其子朝矩跡を繼ぎしも、領内不隱の事あり上州前橋に移さる、

寛延二年(1750)七月、酒井忠恭、前橋より代わつて當城に主となり、爾後忠以、忠道、忠實(忠実)、忠學(忠学)、忠寶(忠宝)、忠顯(忠顕)、忠績を經て忠惇に至る。時恰も維新の大革命に際し、忠惇幕府にせしかば明治元年(1868)正月十日、官軍績々姫路に向ひ、形勢甚だ隱やかならざりしかば、開城して恭順の意を表し、上州伊勢崎城主酒井忠恒の子忠邦を迎へて、藩主となし、事平らぐこと得たり、忠邦はし最後の城主にして、赤松忠範初めて城を築きしより正に四十一代目に當れり、

明治二年(1870)六月十七日、忠邦土を還して、領實収十分の一、凡そ八千石を賜はる、明治四年(1872)七月廢藩置懸となり、城地は總て陸軍省の管轄に歸して(帰して・返して)、大阪鎮鎭臺の分營地となる、明治十九年第四師團第十聯隊の兵營となり、二十七年戰役後、第十師團を置かれ以て今日(明治44年(1911))に及べり。

 

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姫路城主累代一覧

第一代 赤松 貞範  則村二男
- 天平元年(729)正月八日姫路城を築く、在住四年

第二代 小寺 頼秀  貞範の一族
- 天平四年(733)領主となる、在住四年

第三代 小寺 景治
- 天平七年(736)十月領主となる、在住六年

第四代 小寺 景重
- 天平十三年(742)領主となる、在住四十六年

第五代 小寺 職治
- 應永十年(1404)領主となる、在住九年

第六代 山名 持豐
- 嘉吉元年(1441)十月十日入城、管城十八年

第七代 赤松 政則
- 應仁元年(1467)五月入城、在住三年

第八代 小寺 豐職
- 文明二年(1471)領主となる、在住一年

第九代 小寺 則職

第十代 小寺 政隆

第十一代 黒田 重隆

第十二代 黒田 職隆

第十三代 黒田 孝隆

第十四代 羽柴 秀吉
- 天正八年(1581)四月八日入城、在住三年

第十五代 羽柴 秀長

第十六代 木下 家定

第十七代 池田 輝政
- 慶長五年(1601)十二月入城、治城十四年

第十八代 池田 利隆

第十九代 本多 忠政
- 元和元年(1615)五月桑名より入府

第二十代 本多 政朝

第廿一代 松平 忠明
- 寛永十六年(1640)四月出羽山形より入城

二代 松平 直基

三代 榊原 忠次
- 慶安二年(1650)八月入府

第廿四代 榊原 政房

第廿五代 松平 直矩

六代 本多 政武

第廿七代 榊原 政邦

第廿八代 榊原 政祐

九代 榊原 政岑

第三十代 松平 義知
- 寛保二年(1743)六月入城

一代 松平 朝矩
領内不隱、前橋に還さる

二代 酒井 忠恭
寛延二年(1750)七月四日入城

三代 酒井 忠以

四代 酒井 忠道

五代 酒井 忠實

六代 酒井 忠學

七代 酒井 忠寶

八代 酒井 忠顯

九代 酒井 忠績

第四十代 酒井 忠惇

第四十一代 酒井 忠邦

 

修繕誌

發端

天下の名城と呼ばれたる白鷺城も、建築以來三百年、時々小修繕を行ひたるに係はらず、腐朽の箇所次第に多く、柱は歪がみ、軒傾き頽廢の惨状目も當てられず、市民は云ふも更なり、道行く人も頻りに修繕の必要を叫ぶに至り遂に明治四十一年(1908)姫路市民の大會となり、白鷺城保存期成同盟會の設立となり、更に帝國議會へ請願するに至り第二十六議會はその議を容れて遂に九萬圓の修繕費を通過するに至れり、是に於て明治四十三年(1910)六月廿四日、第十師團經理部に於て、工事請負人中村祐七(姫路)松村雄吉(福知山)中嶋勘次郎(神戸)澁谷治三郎(京都)大溝組(大阪)の五人を指名して工事の入札を行ひしが、五萬六千九百圓を以て、中村祐七へ落札せり、是を第一期工事と稱し、其修繕箇所左の如し、

天守閣 東小天守閣 西小天守閣 乾小天守閣 はの渡櫓 ろの渡櫓 薹所 いの渡櫓 にの渡櫓 水の四門 水の五六門

工事着手(一期工事)

明治四十三年(1910)七月十日愈々(いよいよ)工事に着手し、先づ諸材料運搬及び天守閣への昇降の便を計り、喜斎門外より天守閣下層に通ずる長さ八十四間巾二間の大棧橋を設け、三寸五分の勾配にて之に二條の軌條を敷設し、天守閣内に二十馬力のモートルを備へワイヤロープにて荷重捲上機を据ゑ付けたり、

それより天守閣の四周に杉丸太を以て、足場を架設したるが丸太及押角材合せて一万餘本に達せり、

斯くて天守閣は東南方に傾斜しつゝあるを以て之を防止する爲め、二層へ八本、三層へ六本、四、五、六、七層へ各八本宛の筋違を增設し、又二層の東南方へ十四本、三層の東南方へ十四本の支柱を設けたり、

床板は破損又は凹凸のヶ所を取外し根太は腐朽の材を全く取り換へ、七層上の如きは全部新たに張替をなす。

屋根は互を悉く取り外し、梁、桁、隅木、破風等の腐朽及び蟲喰等を取り換へ、瓦は全部取落ろして苔を洗ひ、不足の分は瓦師西谷增吉、福永正太郎、林榮松等をして新たに作製せしめたるが、其は瓦全部の半に及べり、

屋根漆喰は、上蠣灰七升、石灰七升、油籠苆五百五十目、角又布海苔五百目を調合したるものを以て、五回宛塗り立てたり、

其他内外の壁及び窓戸等一々新たに修繕し、一も殘る所なく、明治四十四年七月十五日を以て全く竣成せり。

第二期工事屬するものは、明治四十三年(1910)十月廿五日第十師團經理部に於て行ひ、第一期工事の請負人と同じく指名入札に附したるが、其結果貮萬九千拾五圓を以て松村雄吉に落札せり、其の修繕箇所は左の如し、

にの門 を、は、へ、い、ろ、は、ほ、に、ち、りの櫓及渡り櫓 ぬの門 菱の門 との各門 番所 井の郭櫓 帶の郭櫓 ほの門 水の各門 への門 ちの門 りの門 塀 折曲櫓 帶の渡櫓 土塀增設 喜斎門 喫烟所 便所 道路新設等

工事着手(二期工事)

二期工事の着手は、明治四十三年(1910)十一月五日にして、棧橋の架設を要せしも第一期工事の爲め架したるものを利用し、備前門附近にて左方両方へ支線を架し電力にて捲き揚げたる諸材料を支線に積み下ろし、人力を以て各工塲に配布することゝせり、第二期工事の仕様は、第一期と同じく床板の張替、屋根下地の取替、土居葺及瓦葺替、屋根漆喰、軒裏漆喰、内外壁塗等をなし、柱の取替、中柱支柱の增設、二階梁取替等多にして、階段、石垣等を積直し、木土台等は殆んど全部取替を行ひ、全く改築同様の箇所多かりき、殊に菱の門の如きは朽廢のヶ所案外多く非常なる費用を要したり。

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明治四十四年(1911)七月十七日印刷
同    年七月廿三日發行

兵庫懸飾磨郡城北村ノ内伊傳居村九〇ノ四
著作兼發行者 大浦濤花

姫路市下白銀町十四番地
印刷者 黒田 葎

姫路市下白銀町十四番地
印刷所 黒田文明堂

定借金五銭

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(出典)025605-000-6 特47-763 姫路城誌 大浦濤花/著 M44 ADC-3099


本書籍は国立国会図書館にて公開されていますので、誰でも読むことができます。
(出典)国立国会図書館デジタルコレクション – 姫路城誌

元号西暦表示の例) 慶長五年(1601) (1600/2/15~1601/2/2)

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公開日:
最終更新日:2018/02/11

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