「姫路城圖・明治維新前酒井家所領時代」からみる櫓門命名の状態(~1867年前後)
「姫路城圖・明治維新前酒井家所領時代(以後、「本酒井図」)」は、
大正元年12月に作成された図面を元に、
昭和54年9月に一部を補って書かれた姫路城内の案内図になります。
大正当時にどのような名称で各櫓・門が呼ばれていたのかを知る貴重な資料です。
ここではその図面を元に櫓名などを読み取り、現在の呼名との相違を確認してみます。
「姫路城圖・明治維新前酒井家所領時代」からみる櫓門命名の状態
「姫路城圖・明治維新前酒井家所領時代」の
「国立国会図書館デジタルコレクション」のものとは異なる紙図を所蔵しており、
見えにくい部分は紙図の文字を判読し記載しています。
「筆者所蔵の紙図」の欄外別記部分には以下の記述があります。
大正元年十二月 砂川雄健製図、昭和五十四年九月 島田清訂捕
註、図中にみえる「現今登城路」は大正元年当時のもの。また左上方の写真は明治四十四年、修理竣工時のもの。
デジタルコレクションの図面もほぼ同様のものと考えます。
備前丸より外の櫓・門の名称表記
この図において備前丸より内側の建造物の多くは、命名が一切表記されていません。
その為、備前丸外の呼名についてのみ参考にできる資料になっています。
作成が大正元年(1912〔明治45年・112 年前〕)の頃に作図されていますが、
右下に「寛延二年 酒井忠恭 以後、世々酒井氏在家 明治維新に至る」とあり、
寛延二年(1749〔275 年前〕)~明治維新(慶応3年(1867〔157 年前〕)*大政奉還からとする場合)間の、
姫路城内を絵図にしたものと考えられます。
遅くとも、明治元年(1868〔156 年前〕)を表している図であると考えられます。
姫路城史には以下のように書かれており、酒井家時代は非常に状態よく保存されていたようです。
姫路城の維持保存については、歴代城主に於ても、それヾ意を用い、〔姫路城年表、姫路城大天守構造調査書。〕殊に酒井氏時代には留守居、城代、作事奉行等に命じて絶えず損所に注意し、大破に及ばざる間に修復せしめたが、〔姫路藩集書。〕廃藩以来管理充分に行届かず、年を経るとともに漸く(やうやく)頽廃(たいはい)したので、明治二十三年陸軍省に於て、一慶修理を行ひ、補強のため大天守地階に支柱二十二本、筋違二十一本を入れた。〔姫路城修理要覧〕
然るにその後更に年を経るに従って、又々荒廃し、天守を始め、諸櫓の軒破れ、壁落ち、そのまゝにしては何時崩壊せんとも知れぬ状態になつたので、市民の間に名城の頽廃を惜しみ、保存修理を叫ぶもの多く、遂に明治四十一年市民大會を開き、白鷺城保存期成同盟會を組織し、政府及び貴衆兩院(両院)へ請願の結果第二十六議會を通過し、九萬圓の豫算(よさん・予算)を以て修理を行はれることになつた。〔姫路城誌、鷺城新聞〕この間同市出身の陸軍次官陸軍中尉男爵石本新六〔〇後陸軍大佐〕の盡力(じんりょく・尽力)が大いに與つて力があった。〔神戸又新日報(こうべゆうしんにっぽう)、鷺城新聞〕
(抜粋引用)第三章 姫路城の保存修理 第一節 明治の大修理|姫路城史 下巻 橋本政次著(昭和二七年一二月一五日発行)/姫路城史刊行會
その為、酒井家所領時代のこの絵図は、
姫路城が状態良く保存・維持されていた頃を表す貴重な資料であると言えます。
櫓名の記載
この図に記載されている「櫓名」を上に書いていくと、このようになります。
この「本酒井図」にしか書かれていない「空蔵」や「月見御殿」の表記があり、
呼び方の違いの発生箇所も「御多門」が「玉蔵」と用途によって変更されたと思われること以外、
非常に「村翁夜話集」を精度よく踏襲して書かれているのが分かります。
ただ「菊御門御櫓」部分でズレが発生し、「菊御門御櫓」を「ム櫓」と表記してしまい、
それ以降の「ウ櫓」から「ヰ櫓」までがズレた記載になっています。
帳尻が合わなくなった部分(1櫓多い)は「うノ御櫓」を飛ばして表記しています。
それでも、非常に精度の高い図であると思います。
特筆すべき点として、No.1に記載の「ニ櫓」です。
この櫓は村翁夜話集では、一、ニ、三、四の漢数字で表す「三の御櫓」として表記されている部分です。
現在、姫路城内では「二の櫓」として紹介されています。
それが「ニ(に)」なのか「二(2)」なのか分かりませんが、
元々は「三(3)」なのです。
そして、その錯誤がこの時点で既に始まっていると言う事は、非常に興味深い点です。
困った事にNo.6では同様に「ニ櫓(に)」が出てきています。
恐らくは「二(2)櫓」と「ニ(に)櫓」を記載したものと思います。
しかしここには、備前丸内に当時あった、
「二ノ御櫓」「四ノ御櫓」「五ノ御櫓」に対しての記述がないので気付かずに、
ここが「三ノ御櫓」であることに気づかず、かつ「三」が「二」に見えて転記されたのかもしれません。
2018年時点で姫路城内の櫓門等の名称付けの古い資料として
「村翁夜話集」がありますが、その「村翁夜話集」で定義されている櫓名との差異を以下に一覧化しています。
ほぼ「村翁夜話集」定義の「江戸末期名」が採用されていることがわかります。
順No | 整合 | 酒井時代名 | 村翁夜話名 | 現名称 | 現存 | 分類 | 階層 | エリア | 村翁夜話集原文 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | × | 二櫓 | 三ノ御櫓(015) | ニの櫓 | 現存 | 櫓 | 1重 | 水曲輪 | 一重 同所西ノ方三ノ御櫓 桁行折廻五間半、梁行二間、 | 「現:二の櫓」はここでは一重の「三ノ御櫓」と表記。 |
2 | 〇 | イ櫓 | いノ御櫓(052) | - | 消失(跡) | 櫓 | 2重 | 乾曲輪 | 二重 同いノ御櫓 桁行三間弐尺、梁行三間、 | - |
3 | × | 玉蔵 | 御多門(054) | ロの櫓 | 現存 | 多門櫓 | - | 乾曲輪 | 同所東ノ方御多門 桁行六間、梁行弐間一尺七寸、 | - |
4 | 〇 | ロ櫓 | ろノ御櫓(550) | にの門 | 現存 | 櫓 | 2重 | 西北腰曲輪 | 二重 同ろノ御櫓 桁行三間弐尺四寸 梁間弐尺五寸 | この項脱漏につき異本により補う(出典:姫路史14巻) |
5 | 〇 | ハ櫓 | はノ御櫓(552) | - | 消失(跡) | 櫓 | 2重 | 西北腰曲輪 | 二重 同はノ御櫓 桁行四尺一寸 梁行三間二尺六寸 | この項脱漏につき異本により補う(出典:姫路史14巻) |
6 | 〇 | ニ櫓 | にノ御櫓(058) | イの渡櫓 | 現存 | 櫓 | - | 北腰曲輪 | 同所北ノ方にノ御櫓 桁行三間五尺、梁行四間弐尺八寸、 | - |
7 | 〇 | 塩櫓 | 塩蔵(555) | ハの渡櫓 | 現存 | 蔵 | - | 北腰曲輪 | 同続東ノ方塩蔵 桁行拾五間弐尺 梁行三間弐尺六寸 | この項脱漏につき異本により補う(出典:姫路史14巻)、別名「塩櫓」 |
8 | 〇 | ホ櫓 | ほノ御櫓(060) | 二の渡櫓 | 現存 | 櫓 | - | 北腰曲輪 | 同続ほノ御櫓 桁行五間半、梁行四間三尺五寸、 | - |
9 | 〇 | ヘ櫓 | へノ御櫓(080) | 太鼓櫓(への櫓) | 現存 | 櫓 | 1重 | 上山里曲輪 | 一重 同所西ノ方へノ御櫓 桁行五間、梁行弐間四尺五寸、 | - |
10 | 〇 | ト櫓 | とノ御櫓(086) | 太鼓櫓南方土塀 | 置換(復旧以外の再建) | 櫓 | 2重 | 上山里曲輪 | 二重 同とノ御櫓 桁行四間半、梁行三間 弐尺六寸、 | - |
11 | 〇 | チ櫓 | ちノ御櫓(089) | チの櫓 | 現存 | 櫓 | 2重 | 上山里曲輪 | 二重 同所西方ちノ御櫓 桁行四間半、梁行三間半、 | - |
12 | 未 | 空蔵 | 記載なし | 不明又は消失 | - | |||||
13 | 〇 | リ櫓 | りノ御櫓(095) | をの門跡 | 消失(跡) | 櫓 | - | 二の丸 | 同所西ノ方りノ御櫓 桁行四間四尺五寸、梁行弐間六寸、 | 明治15年2月1日失火により消失。 |
14 | 〇 | 化粧間 | 御化粧間(098) | 化粧櫓 | 現存 | 櫓 | - | 西の丸 | 同所北方御化粧間 桁行八間半、梁行三間、 | - |
15 | 〇 | ヌ櫓 | ぬノ御櫓(100) | ヌの櫓 | 現存 | 櫓 | 2重 | 西の丸 | 二重 同ぬノ御櫓 桁行四間一尺、梁行三間、 | - |
16 | 〇 | 長局 | 長局折廻(101),長局(102),長局(103) | ヨの渡櫓(東部),ヨの渡櫓(中央部) | 現存 | 長局 | - | 西の丸 | 同続西ノ方長局折廻 桁行三拾二間、梁行三間、 | - |
17 | 〇 | ル櫓 | るノ御櫓(104) | ルの櫓 | 現存 | 櫓 | - | 西の丸 | 同るノ御櫓 桁行三間四尺、梁行三間半、 | - |
18 | 〇 | ヲ櫓 | をノ御櫓(108) | - | 消失(跡) | 櫓 | - | 西の丸 | 同をノ御櫓 桁行三間二尺五寸、梁行弐間弐尺五寸、 | - |
19 | 〇 | ワ櫓 | わノ御櫓(111) | ワの櫓 | 現存 | 櫓 | 2重 | 西の丸 | 二重 同わノ御櫓 桁行三間半、梁行三間半、 | - |
20 | 〇 | カ櫓 | かノ御櫓(113) | カの櫓 | 現存 | 櫓 | - | 西の丸 | 同所東方かノ御櫓 桁行五間四尺、梁行三間半、 | - |
21 | 〇 | ヨ櫓 | よノ御櫓(122) | - | 消失(跡) | 櫓 | - | 三の丸(西御屋敷) | 〇御本丸西北ノ方角よノ御櫓 桁行七間、梁行弐間半 | 明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。 |
22 | 〇 | タ櫓 | たノ御櫓(125) | - | 消失(跡) | 櫓 | 2重 | 三の丸(西御屋敷) | 二重 同たノ御櫓 桁行五間、梁行三間五尺五寸、 | 明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。 |
23 | 〇 | レ櫓 | れノ御櫓(128) | - | 消失(跡) | 櫓 | - | 三の丸(西御屋敷) | 同れノ御櫓 桁行四間三尺五寸、梁行三間弐尺四寸、 | 明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。 |
24 | 未 | 月見御殿 | 記載なし | 不明又は消失 | - | |||||
25 | 〇 | ソ櫓 | そノ御櫓(131) | - | 消失(跡) | 櫓 | 2重 | 三の丸(西御屋敷) | 二重 同そノ御櫓 桁行三間半、梁行三間、 | 明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。 |
26 | 〇 | ツ櫓 | つノ御櫓(133) | - | 消失(跡) | 櫓 | - | 三の丸(武蔵野御殿南) | 同所東方つノ御櫓 桁行五間四尺、梁行三間半、 | 明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。 |
27 | 〇 | 太鼓櫓 | 太鼓御櫓(154) | - | 消失(跡) | 櫓 | 3重 | 三の丸(西長屋) | 三重 太鼓御櫓 桁行五間、梁行四間、 | 明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。 |
28 | 〇 | ネ櫓 | ねノ御櫓(163) | - | 消失(跡) | 櫓 | - | 三の丸(大手) | 〇向御屋敷南方ねノ御櫓 桁行折廻九間半、梁行三間一尺五寸、 | 明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。 |
29 | 〇 | ナ櫓 | なノ御櫓(164) | - | 消失(跡) | 櫓 | 2重 | 三の丸(大手) | 二重 同所東方なノ御櫓 桁行五間三尺七寸、梁行四間半、 | 明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。 |
30 | 〇 | ラ櫓 | らノ御櫓(165) | - | 消失(跡) | 櫓 | - | 三の丸(大手) | 同所東方らノ御櫓 桁行六間五尺、梁行五間半、 | 西方不随する建屋不明。明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。 |
31 | × | ム櫓 | 菊御門御櫓(546) | - | 消失(跡) | 櫓 | 3重 | 三の丸(西御屋敷) | 〇菊御門 但表裏之分とも桁行拾間、内三間四方、三重御櫓、梁行六間半、明キ一丈三尺五寸、クヽリ明キ三尺五寸、 | 明治7年兵営設置、姫路空襲等により撤去・消失。空襲は1945年6月22日と7月3日深夜から7月4日未明。 |
32 | × | ウ櫓 | むノ御櫓(185) | - | 消失(跡) | 櫓 | 2重 | 三の丸(向屋敷) | 菊御門東ノ方 二重 〇むノ御櫓 桁行六間、梁行四間、 | 明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。 |
33 | × | (未記載) | うノ御櫓(190) | - | 消失(跡) | 櫓 | - | 三の丸(御作事) | 同続東方うノ御櫓 桁行五間弐尺、梁行三間弐尺、 | 明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。 |
34 | × | ヰ櫓 | ゐノ御櫓(204) | - | 消失(跡) | 櫓 | 2重 | 三の丸(下三方) | 二重 同所南方ゐノ御櫓 桁行四間五尺、梁行三間四尺、 | 明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。 |
35 | 〇 | ノ櫓 | のノ御櫓(210) | - | 消失(跡) | 櫓 | 3重 | 東勢隠 | 八頭御門北ノ方 三重〇のノ御櫓 桁行五間四尺五寸、梁行三間半、 | 明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。 |
36 | 〇 | オ櫓 | おノ御櫓(216) | - | 消失(跡) | 櫓 | 2重 | 北勢隠 | 二重 同所西方おノ御櫓 桁行五間三尺七寸、梁行四間半、 | 明治7年(1874)兵営設置、姫路空襲(1945)等により撤去・消失。 |
本一覧は筆者の勉強・調査・後の検索を目的に作成したものであり、その正確性を保証するものではありません。
現在の姫路城で各櫓に付けられている名前は、その名称で「国重要文化財」の登録も既に行われています。
現在は重要文化財登録の名称で呼ぶのが、正しい呼び方になるものと思っています。
当サイト管理者は「旧名」で呼ぶことや過去の錯誤を無くすことがしたい訳ではありません。
過去文献の調査時に過去名が必要な場合がある為にご紹介をしているに過ぎません。
「村翁夜話集」の記述等に関しては、以下でご確認いただけます。
門名の記載
この図に記載されている「門名」を上に書いていくと、このようになります。
この「本酒井図」は「村翁夜話集」を綺麗に踏襲して、錯誤なく転記が行われています。
こちらもほぼ「村翁夜話集」定義の「江戸末期名」が採用されていることがわかります。
順No | 整合 | 酒井時代名 | 村翁夜話名 | 現名称 | 現存 | 分類 | 階層 | エリア | 村翁夜話集原文 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 〇 | い門 | いノ冠木御門(044) | いの門 | 現存 | 門 | - | 二の丸 | 菱ノ御門内北ノ方 〇いノ冠木御門 桁行三間四尺、袖ノ間一間一尺五寸、明キ一丈五寸、クヽリ四尺、 | - |
2 | 〇 | ち門 | ちノ冠木御門(072) | ちの門 | 現存 | 門 | - | 東曲輪 | とノ御門内南方 〇ちノ冠木御門 桁行弐間、明四尺一寸、 | - |
3 | 〇 | と門 | とノ御門(065) | との一門 | 現存 | 門 | - | 搦手 | へノ冠木御門外東方 とノ御門 桁行三間一尺五寸、梁行一間五尺、明キ一丈一寸、クヽリ明キ弐尺一寸、 | - |
4 | 〇 | に門 | にノ御門(548) | にの門 | 現存 | 門 | - | 西北腰曲輪 | はノ御門北ノ方 〇にノ御門 桁行弐間弐尺五寸 梁行壱間四尺五寸 明キ六尺五寸 | この項脱漏につき異本により補う(出典:姫路史14巻) |
5 | 〇 | ぬ門 | ぬノ御門(091) | ぬの門 | 現存 | 門 | - | 上山里曲輪 | (記述なし) | 「ぬノ御門迄」の記述はあるが「ぬノ御門」の記述がない。「折廻渡御櫓」に含む扱いか。 |
6 | 〇 | は門 | はノ御門(050) | はの門 | 現存 | 門 | - | 乾曲輪 | ろノ御門北ノ方 〇はノ御門 桁行三間半、梁行一間弐尺五寸、明キ七尺五寸、クヽリ三尺一寸、 | - |
7 | 〇 | へ門 | へノ冠木御門(063) | への門 | 現存 | 門 | - | 北腰曲輪 | 同所南ノ方へノ冠木御門 桁行壱間弐尺弐寸、袖ノ間一間一尺、 | - |
8 | 〇 | ほ門 | ほノ冠木御門(057) | ほの門 | 現存 | 門 | - | 北腰曲輪 | にノ御門内東ノ方 〇ほノ冠木御門 桁行壱間弐尺、明キ四尺八寸、 | - |
9 | 〇 | り門 | りノ冠木御門(082) | りの門 | 現存 | 門 | - | 上山里曲輪 | 同続北ノ方りノ冠木御門 桁行弐間四尺、袖間壱間、明キ八尺弐寸、クヽリ三尺二寸、 | - |
10 | 〇 | 留門・る門 | るノ冠木御門(093) | るの門 | 消失(跡) | 門 | - | 二の丸 | ぬノ御門外西ノ方 〇るノ冠木御門 桁行五尺七寸、明キ三尺七寸、 | - |
11 | 〇 | ろ門 | ろノ冠木御門(047) | ろの門 | 現存 | 門 | - | 二の丸 | いノ御門内北ノ方 〇ろノ冠木御門 桁行四間四尺六寸、袖ノ間一間弐尺、明キ一丈五寸、クヽリ四尺、 | - |
12 | 〇 | を門 | をノ冠木御門(094) | をの門跡 | 消失(跡) | 門 | - | 二の丸 | 同所北ノ方をノ冠木御門 桁行弐間、袖ノ間一尺一寸、明キ八尺、 | 明治15年2月1日失火により消失。 |
本一覧は筆者の勉強・調査・後の検索を目的に作成したものであり、その正確性を保証するものではありません。
現在の姫路城で各櫓に付けられている名前は、その名称で「国重要文化財」の登録も既に行われています。
現在は重要文化財登録の名称で呼ぶのが、正しい呼び方になるものと思っています。
当サイト管理者は「旧名」で呼ぶことや過去の錯誤を無くすことがしたい訳ではありません。
過去文献の調査時に過去名が必要な場合がある為にご紹介をしているに過ぎません。
特筆すべき点としては、
No.26の「稜下門」としている部分は文字の潰れでよく見えない部分がありますが、
市公式、および「村翁夜話集」には「榎下冠木御門/榎下門」とされている個所になります。
ただこの「本酒井図」を見る限りは「稜下門」と読めてしまい、
「村翁夜話集」原本の「くずし字」の解析時に「稜」を「榎」としてしまったのか、
「本酒井図」が「榎」を「稜」としてしまったのか、どちらかに勘違いが起きているのではないかと思います。
ただ「稜」という漢字の意味を見ると「物のかど。とがった所。 〔名義抄〕」などとあり、
飛び出た西の丸の角(カの櫓)という意味にもとれないことはないようにも思います。
上の図を見ても、石垣がくびれているように思いません??
私は、何となく「稜下」の方が正しいのではないかと漠然と感じます。
2018/02/02追記
出版本ではなく、手書きの「村翁夜話集」コピーから、
元の文字を確認してきました。
「稜」でもないけど「榎」でもない印象になっています。
「稜」だとさらに旧字で「祾」を書きそうな気もしますしね・・・。
個人的には木偏のりょう「棱(稜に同じ)」じゃないかなぁと思ってます。
「木簡字典・電子くずし字字典 [共通検索システム]」とか使ってみましたが、
どれもイメージに合わない結果になりました。
当サイトで勝手にここは「棱下門」って呼び始めてしまおうかしら。
(いやいや、そうやって「三ノ御櫓」が「二の櫓」に化けたんだってば・・・ダメダメ)
追って調査していきます!
ただ、「榎下冠木御門」の場所が以下の位置になっています。
そしてその位置を実際に見てみると、どうでしょう?
「カの櫓」下の石垣の稜線が綺麗で、その直下にある「御門」になります。
稜線の下の門、「稜下門/棱下門」って感じじゃないですかね。
「村翁夜話集」の記述等に関しては、以下でご確認いただけます。
「村翁夜話集」が江戸末期(江戸末期の幕末嘉永の頃)に作成された文献とされていますが、
姫路城45代城主、酒井忠顕(ただてる)が嘉永6年(1853〔171 年前〕)に城主になったとされています。
以後、48代城主、忠邦(ただくに)が明治元年(1868〔156 年前〕)が最後の城主になっています。
保存よく管理されていた姫路城の時期に「村翁夜話集」と
「本酒井図」を作成する元になった図が遺されていたことはとても貴重なことだと言えます。
大正元年12月に作成された本図の元にした図は何なのかは不明ですが、
少なくとも「村翁夜話集」の表記とほぼ相違なく、櫓名・門名が記載されている事は、
どちらがマスターデータだったとしてもその頃の呼称を確証づける資料になると思います。
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公開日:
最終更新日:2018/02/06