「播陽古城記 : 2巻(写)」作者不明(時期不明:享保17年以降:2次榊原)ー抜粋(1732)
「播陽古城記 : 2巻・写」は非常に古い記録で実際に編纂された時期は書かれていませんが、
「享保17年(1733)」の記述がありそれ以降(姫路城年代:2次榊原)であることは確実です。
播磨地方の城の歴史を個々に記述してあり、とても興味深いものになっています。
姫路城で言えば有名な「村翁夜話集」「姫路誌第一班」「姫路誌」「姫路城誌」などと、
お互いに参照されることが少なく独立して書かれているような印象を受けるます。
毛筆の書物の為、素人には非常に読みづらいのですが活字化を試みましたのでご紹介しておきます。
※姫路城と関連する部分のみ抜粋です。
概要(見出し)
播陽古城記 上 赤松城蹟
白旗城 赤穂郡 赤松庄 赤松村
抑此白旗城ハ村上天皇第七皇子具平親王五代田裔中院右大臣雅宆郷曽孫後三位従希房郷鳥羽院ノ時播州國司トナリ加古郡右大内村二移リ天永三年(1113)春或夜高山峨々ト聳ヘ前二大河漲タル地二天ヨリ白幡■現降ルト夢シ所二同國赤穂郡赤松庄ノ山上二怪雲互白幡ト現レ又白雲ト変レタル由告タリシカハ國司之ヲ聞キ大二喜ヒ 爰二 居住ノ域ヲ定メント新三城ヲ築キ氏ヲ□メ赤松ト号ス是赤松氏ノ元祖ナリ其嫡子播磨守頼範次二伊豆守則景ト云ヒ元暦中源頼朝二従ヒ大功アリ恩賞二同國佐用郡宇野庄ヲ賜と宇野播磨守ト号一門繁栄シテ天正(1573-1593)ノ頃二三十六家二分し就中希房八卋(世?)ノ孫赤松次郎左ヱ門尉則村〔入道シテ円心ト号〕文武兼備ノ名将二後□醍醐帝時北條相模髙時応伐ノ大功アリ
ーーーーーー(中略)ーーーーーー
(引用)白旗城 | 播陽古城記 : 2巻「2」「3」項を参照
置塩山城 飾西郡 置塩庄 町村 城主 赤松兵部少輔政則
侓師則祐五代孫義則曽孫義雅孫千松丸時勝カ子ナリ千松丸九才ノ時嘉吉乱起り母ト江刕二成長ス後政則□産ハ幼名二郎法師丸ト云ヒ中村カ忠義二依り細川勝ノ下知二従ヒ應仁元年(1467)政則姫路二下向し山名カ兵ヲ破テ播刕ヲ奪と返し文明元年(1469)(応仁の次と解釈)置塩山二築キ之二移リ姫路ニハ小寺伊勢守ヲシテ守ラシメ政則ハ従二位□叙し伊勢守トナリ三國ノ大守トシテ國家ヲ□□□二十九年□□五年(明應五年(1497)?)四月二十五日四十二才ニテ卒ス
置塩二世ノ主赤松兵部少輔政村父刑部少輔政資ト云ヒ七條家ノ末ナリ政則子ナク政村ヲ養クテ子トナス
執叓浦上美濃守則宗カ嫡子掃部助村宗ヲ見トス然ルニ村宗大二奢リ後二主人政村ハ室津城□隠□セシム
三卋ノ主赤松左京太夫播磨守晴政ハ村長ゐナリ然ルニ浦上村宗又幕下花房越後守ヲ室津二遺し政村ヲ刺殺サシム其後室津城ニハ村宗カ子羑作守政宗ヲ以テ守ラシム晴政之ヲ聞テ大二怒り宇野上月別所小寺ヲ以テ浦上ヲ討ツ細川管領晴元ヨリ三好筑前守長基ヲ以テ加勢トシテ共二浦上カ城三石ヲ攻浦上破レ大永七年(1528)四月二十日攝刕ヘ□二行室津政宗も竜野城主赤松刑部少輔利秀〔政村二男晴政□□〕ヨリ幕下ノ内内海平井ヲ遺ハシ討亡サレ作刕天神山城主浦上遠江守景宗も〔村宗嫡子〕備前浮置〔旧字〕家二攻□サレ一族悉く討死甚身漸ク京都へ脱走ス
四卋ノ主赤松兵部少輔出羽守義祐政子ナリ此時家□衰ヘ浮田氏ノ幕下ト成ル
五卋ノ主赤松上□(總や憁)助播磨守則居ナリ□□戦國最中二□毛利最盛大浮田氏是二属し西播磨又集ハレ赤松氏大二衰時二又信長ヨリ毛利征伐ノ大将羽柴秀吉下向し播磨悉ク之二従フ則房又城ヲ開キ□左兵衛範貞二一万石ヲ賜ヒ阿引シ加島ヘ移ル
元弘二年(1333)赤松入道圓心蜂起アリ天□八(天正八年(1581)?)□(迄?)凢二百四十七年赤松氏滅亡
ーーーーーー(中略)ーーーーーー
(引用)置塩城 | 播陽古城記 : 2巻「11」「12」項を参照
※細川勝:??細川勝氏か?(ほそかわ かつうじ)、「姫路誌第一班」では「細川勝元」と書かれる。
※元弘二年(1333)~天正八(1581)とすると248年か。二百四十七年(297年)としているが不明。
姫路城 飾東郡 國衛庄 姫路
赤松筑前守貞範〔円心二男〕貞和年中(1345-1350)之二築ク其後赤松政則當國二入ルヤ先此城ニアリ文明元年(1469)置塩山二一城成就し政則移ルニ及ヒ此城ハ小寺伊勢守豊職之ヲ其子加賀守則職其子美濃守職隆其楢子美濃守祐隆相續しテ守リケルカ羽柴秀吉當國二入ルヤニ及ヒ小寺祐隆秀吉二此城□勧メ自ラ妻鹿國府山ヘ移リテ其子考隆迠妻□と居住ス羽柴秀吉三木氏ヲ亡し因刕鳥取ヲ攻落し後三重天守ヲ造り之二居ル天□十年(天正十年(1583))明智光秀信長ヲ弑セシカハ秀吉舎弟秀長モ(二)城ヲ守ラシ京都へ進発フし明智ヲ亡し給フ秀長後二和刕郡山城二移リ其次二木下家定續テ守ル慶長五年(1601)ヨリ池田輝政二此城ヲ賜リ部内ヲ廣クし郭外と市町ヲ築キ實二無双ノ名城ト称ス輝政在住十四年ニシテ同十八年(1614)正月二十四日四拾九才二テ卒ス長子武蔵守利隆備前ヨリ入リテ相續ク元和二年(1617)六月十三日死ス同三年(1618)本多忠政勢州□名(桑名??)ヨリ入リテ居住ス寛永八年(1632)八月十日卒ス長子中務大輔同年(1632)二卒ス二男甲斐守□朝(政朝??)當國竜野ヨリ入ル同十五年(1639)十一月二十日卒ス松下下總守淸匡(松平清匡?)寛永十六年(1640)和州郡山ヨリ入リテ續ク長子下野守淸良梘續ス其後松平大和守直基羽刕山形ヨリ入テ居住ス同年(1640)死去長子藤松續ス翌歳越後村上二移ル榊原式部大輔忠次慶安二年(1650)奥州白川ヨリ入ル寛永五年(1629)三月廿九日卒ス長子刑部大輔政房同七年(1631)五月二十四日卒ス其鏑子熊之助相續ク越後村上二移ル松平大和守直矩寛文七年(1668)八月村上ヨリ入ル天和二年(1683)六月十一日豊後飛騨移ル本多中務大輔政武同日奥州福島ヨリ入リ同吉重良考マテ相續し寛永元年(1624)越後村上二移ル榊原式部大輔政邦寛永元年(1624)越後村上ヨリ入リ長子式部大輔政祐二至ル享保十七年(1733)卒ス國家長ス
赤松支流浪士誌之
播陽古城記 下大尾
ーーーーーー(巻末)ーーーーーー
*1:補足)一部「寛永」の元号が散見して、時間軸がズレて書かれているように見える。
「天和二年(1683)六月十一日豊後飛騨移ル本多中務大輔政武同日奥州福島ヨリ入リ同吉重良考マテ相續し、寛永元年(1624)越後村上二移ル榊原式部大輔政邦寛永元年(1624)越後村上ヨリ入リ長子式部大輔政祐二至ル越後村上ヨリ入リ長子式部大輔政祐二至ル享保十七年(1733)卒ス國家長ス」の部分は、話の流れでは時系列で書かれていると思われる。
となると途中の「寛永」表記は「寛永(1624-1645)」年間ではないように思われるが、
どう見ても「寛永」と書かれている。
天和から、享保にいたる間で「寛永」に似た元号は、
「宝永」であり旧字体では「寶永(1704-1711)である」。その誤りではないか?「寶永元年(1704)」
寛 寶 似てると言えば似ている。手書きなら間違えてもおかしくない。
それより前に出てくる「寛永」は「寛文」との書き間違えのような気もする。
こうやって西暦を出してみないと気づかないから和暦は面倒だなぁと。
(引用)姫路城 | 播陽古城記 : 2巻「27」「28」項を参照
※松下下總守淸匡?: 松平清匡として忠明か。
※下野守淸良梘:誰??松平忠明の長子ならば「忠弘」と言う事になると思うが「下野守」ではないはず。
※「長子藤松續ス」とは?
※長子刑部大輔政房:榊原政房?
以下、今後書き起こしたい部分
御着城
(引用)播陽古城記 : 2巻「13」項を参照
龍野城
(引用)播陽古城記 : 2巻「18」項を参照
三木城
(引用)播陽古城記 : 2巻「19」項を参照
英賀城
(引用)播陽古城記 : 2巻「22」項を参照
本書籍は国立国会図書館にて公開されていますので、誰でも読むことができます。
(抜粋引用)国立国会図書館デジタルコレクション – 播陽古城記 : 2巻
※ページ遷移プルダウン「27」「28」を選択して確認可能です。
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最終更新日:2019/02/04