大手門(おおてもん)
姫路城の構内に入る際に最初に通る門が、
桜門橋(さくらもんばし)を渡ってすぐにある大手門です。
この桜門橋、大手門は新造されたもので復元などが行われたものではありません。
その為あまり語られることはありませんが、新造とはいえ立派なものです。
大手門の概要
新造された大手門については、桜門橋前の案内板に詳しく書かれています。
姫路城の大手門は、本来三重の城門からなり、城内では最も格調高く厳重な門でした。現在「大手門」と呼んでいる大型の高麗門は昭和13(1938)年に完成したもので、位置や大きさは江戸時代のものとは全く異なっています。また大手門前の内堀には桜門橋という木造橋が架けられていました。今回復元した桜門橋は、発掘調査で出土した遺構を活かしながら、江戸時代の木橋をイメージして平成19年(2007)年に築いたものです。
大手口の城門は戦火・失火などによって消失したのではなく、
明治時代に取壊されたといいますから、時代とは怖いものですね。
昔の姫路城の大手口の門(明治時代に取壊されました。今の大手門は昭和十年に再建されたものです)
姫路-お城物語 姫路市教育委員会 著(抜粋引用)
新造品なので価値がないという意見もあるのですが、
再建が昭和13年(1938)の新造という事から既に 86 年前建造 という長い歴史を築いています。
そろそろ文化財的な価値も感じ始めてもいい頃かもしれませんね。
個人的には意匠的に格好がいいので大手門は好きですけどね。
本来三重の城門
さて、案内板に書かれているように、
姫路城の大手門は、本来三重の城門からなり、城内では最も格調高く厳重な門でした。
という表記の三重の城門について見てみましょう。
ここでいう「大手門」は「大手口の門」という意味で、
当初、大手門という門は存在していませんでした。
※「大手口」とは城郭における正面正門を意味する言葉です。また大手門に対して搦手門(からめてもん)は有事の際に領主などが城外や外郭へ逃げられるように設けられる「搦手口」側の紋もあります。
三重の示す意味が「三重の櫓」を示しているのか、
三つの門で幾重にも守られた門という意味のどちらとも取れますが、
案内板の右側に書かれた「播州姫路城図」にも両方が書かれています。
※播州姫路城図に書かれた赤い曲線が人の導線を示しています。
桐の二門~桐の一門へは、大きくU字を描くようにUターンする導線になっています。
桜門橋を渡ってまず、すぐに「桜門」があり、
現在の「大手門」の位置には「桐の二門(桐の外門)」がありました。
桜門から桐の二門までの部分で1つの枡形形状を形成し、
さらに「桐の二門」の先には「桐の一門(桐の内門)」がありました。
同様に桐の二門から桐の一門までの部分で1つの枡形形状を形成する、
2段構えの枡形形状による厳重な守りで固められていました。
こうした当初の城門の様子は菱の門脇にある案内板絵図にも書かれています。
現在ではそうした面影は、残された石垣でのみ感じ取ることができますが、
大手門北側の石垣の上には「太鼓櫓(旧)」という三重の櫓が配置されていました。
※現在では「太鼓櫓(への櫓)」は二の丸東に位置する場所にある櫓のことを示します。
三重の櫓といえば、現存する小天守(乾小天守、西小天守、東小天守)が、
この石垣の上にあったようなものですから、
こうした櫓も残っていたら、さぞ迫力のある城門だっただろうと思います。
他の城郭ではこうした三重櫓が天守として利用されることもあるくらいですので、
姫路城がどれほど立派なものであったかは容易に想像できます。
現在の大手門
現在の大手門を見てみます。
門が非常に大きいのは当時、
軍用車両が通れるように作られたためと言います。
戦前、姫路城三の丸周辺の櫓などを復興しようという壮大な計画が立てられた。現在の大手門は1938(昭和13)年に、その一環として建てられたもので、往時には桐の二門があったところである。当時、軍用車両の通行を確保するため、軒高を高くしてある。
HIMEJI BOOK
中本孝迪 監修/姫路BOOK編集委員会 編
神戸新聞総合出版センター
軍事的な理由はどうあれ、この風格は姫路城に相応しく立派なものだと思います。
しかし、櫓などを復興しようとして、
まったく別物を作ってしまうんですね・・・これも時代背景ですかね。
非常に大きく、高麗門形式で建造されています。
扉には、菱の門のような「筋鉄饅頭金物」や「八双金物」がつけられ、
厳重な作りになっています。
隅には脇戸も作られできる限り様式を模して作ったことが見受けられます。
大手門の上部の冠木(かぶき)には立派な「桐紋」が輝いています。
この桐紋には諸説あるようですが、
池田輝政時代に池田家が使用したものであることが有力なようです。
パンフレットなどで羽柴秀吉時代の瓦とされる桐紋の軒丸瓦を、池田氏や本多氏、榊原氏など秀吉以外の大名も使用したとしています。これに対し、黒田慶一「池田氏の桐紋瓦の再検討」(『淡路洲本城』城郭談話会、1995)では、桐紋瓦は池田家が使用したものと主張しています。いずれにせよ羽柴秀吉が桐紋の軒丸瓦を使った可能性は低そうです。
姫路市|市史編集室 刊行資料のご案内 (抜粋引用)
大手門を内側から見たところです、非常に大きく迫力があります。
冠木の小口にも桐紋が彫られています。
瓦の隅巴(すみともえ)部にも桐紋をあしらった瓦が載せられています。
新造とはいえ、十分に凝った造りで作られたことがわかります。
総社門から受け継いだ斧の刻印
観光客の方が大手門を通過するときに、
気に留めていることは稀で、ほとんどの方が気にも止めず通過されますが、
現在の大手門の石垣には「斧の刻印」があります。
※以下の丸の位置
この斧の刻印は当初は「総社門」にあったものを移してきたものであるとの事です。
大手門(桜門)に向かって左、石垣の最上部に姫路城の刻印を代表する「斧」の刻印がある。この石材は、かつて総社門西側の石垣に使用されていた。
文政六年(一八二三)の「姫路城略図幾蔵図」総社門の頃に「総社門、斧の門という」と記載されている。城の石垣に見る刻印は江戸時代にも注目されていたようで、総社門の石材に打たれた斧の刻印が多くの人の目にとまり、それによってこの門が右の別名で呼ばれるようになったものと推察される。城 姫路城の刻印と転用材について 増田 重信 (抜粋引用)
関西城郭研究会 No.127・1984.4
斧の刻印はこのように打たれています。
※赤色は着色しています。
実際には姫路城の刻印の中でも割と見やすくはっきりと打たれています。
新造された大手門ということで、
単に姫路城の入口の顔といった印象になってしまうことが多いのですが、
いろいろと見ていくと、十分に様々な歴史を追っている門であることがわかります。
最初に、一番簡単に見つけることができる「斧の刻印」を探して、
これから始まる姫路城の歴史探訪のスタートにしてはいかがでしょうか。
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公開日:
最終更新日:2017/05/06