姫路観光の見所・ポイントを徹底的に解説しています。姫路城だけでなく姫路に来た際に役に立つ周辺情報もご紹介しています。

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「姫路誌」姫路市役所編纂(明治45年/大正元年10月)-抜粋(1912)

姫路城の歴史を知るうえで貴重な情報を伝えてくれる資料に「姫路誌」があります。
発行は明治45年(1912 =112 年前)で著者は「姫路市」になります。
姫路城史でも参照されている文献で、姫路城史の作成でも採用される貴重な文献です。
むしろ、以後に書かれた書籍などは概ねこの時代の文献からの焼き直しが大半と言ってもいいくらいです。
広く姫路城の紹介に利用されてきている歴史や言い伝えの元になっているこの資料は、
姫路城紹介の導入書と言ってもいいでしょう。

 

「姫路誌」姫路市役所編纂(明治45年/大正元年10月)

写真

写真は以下の場所が掲載されています。

  • 姫路城南錬兵塲(姫路城南錬兵場)
  • 姫路神社
  • 姫路市役所
  • 姫路藥師山記念碑(姫路薬師山記念碑)
  • 射楯兵主神社
  • 景福寺(景福寺)
  • 德殿(背面)(武徳殿)
  • 第十師團司令部
  • 白鷺城(北面)
  • 船塲本德寺(船場本徳寺)
  • 姫路市立商業學校
  • 十二所神社社内藤棚
  • 姫路赤十字病院
  • 高井綿ネール工塲(工場)
  • 姫路市立北條病院
  • 山陽皮革株式會社
  • 河合寸翁肖像
  • 河合惣兵衛獄中書

 

以下、目次の内容が書かれています。目次はページ番号を省略しています。

目次

  • 位置
  • 姫路の起源
  • 姫山の創築
  • 秀吉築城の大閤丸
  • 池田輝政の五層天守閣
  • 姫路城の高さ
  • 藩黌好古堂の學風(藩校好古堂の学風)《藩学》
  • 河合寸翁の勧勸業
  • 姫路城概評
  • 維新の勤王家
  • 姫山公園
  • 市區の擴張(市区の拡張)
  • 生産品の概要
  • 生産品の統計表
  • 素麺
  • 綿織物
  • 足袋
  • 姫路革
  • 姫路製革所の沿革
  • 姫路市及附近、重なる會社一覧表
  • 新聞社、組合其他商工團体一覧表
  • 工塲名一覧表
  • 營業税百圓以上の納税商人一覧表
  • 教育の概要
  • 縣立姫路師範學校
  • 縣立姫路中學校
  • 市立商業學校
  • 縣立姫路高等女學校
  • 日の本女學校
  • 小學校
  • 裁縫學校
  • 幼稚園
  • 補習教育
  • 社會教育
  • 公衆衛生の概要(附北條病院)
  • 法定傳染病各種統計表(伝染病)
  • 死亡率表
  • 死亡者病名區別表
  • 市費其他負擔(負担)
  • 戸口表
  • 市街民有地種段別
  • 公益團躰表(公益団体表)
  • 高齡者表(高齢者表)
  • 市内に於ける國費受救者表
  • 官衛公署學校表
  • 土産物名産
  • 惣社
  • 長壁神社
  • 十二所神社と阿菊の祠(お菊の祠)
  • 姫路神社
  • 船塲御防(船場御防)
  • 景福寺(景福寺)
  • 正明寺
  • 增位温泉と白國梅林
  • 薬師山と紀念碑

※目次に抜粋されている内容すべてを本記事に抜粋している訳ではありません。

 

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「姫路誌」にかかれた姫路城に関する事項

位置

東經百三十四度四十一分五十二秒(東経134°41分52秒)、北緯三十四度五十分(北緯34°50分)の處に在り、恰も播州の正中に位し東西一里三丁、南北一里、周圍三里三丁二十七間にして面積百万九千二百二十五坪(1,009225坪)を有す。

姫路の起源

太古姫路附近一帶の地は河海なりしが如し、蠶兒(ひめじ)の漂着したる嶋を日女道(ひめじ)の丘(今の城山)と名けたるよしにて是れ姫路の名の因て起るところなりといふ、傳説(伝説)を尋ぬるに今よりは大凡三千年前のことなり、我天租天照大神の弟にあたり給ふ素盞嗚尊(すさのーのみこと/スサノウノミコト)の御子に大已貴尊(おほなむちのみこと/オオナムチノミコト)といふが坐しけり、この尊は只管に力を殖産の業に盡し中國邊は大抵の闢かせ給ひしなるが、尊は久しく宍粟郡の伊和村に住み給ひしが、御子に火明命(ほあかりのみこと)といふがありて性凶暴に坐し何にかにつけて妨害多かりければ尊も困り果て或時の船路に御子をば兄なる因達大神が住み給ひしことある因達神山(今の書寫山邊)といふ水を汲み來れと欺き遣はして其まゝに捨て置き船出し給ひしに、御子は還り來て船なかりければ、激しく憤り、流をり(乱す)波を起して其船に追ひつき、終に怒りに任せて船をは顚覆(転覆)し給へり、の時船に積みありし種々の品は漂いて姫路丘(今の城山)琴丘(今の薬師山)船丘(今の景福寺山)箕の丘(今の秩父山)などの島々に着きけり、即ち蠶兒の着きし島を姫路丘といひ後ち轉訛して姫路と稱ふるに至りしものなりといふ。

(の旧字か?):なんじの。一人称にも用いる。それがし。三人称にも用いる。かの、このような。

 

姫山の創築

姫山とは今の姫路城の在る山を指す天然の丘陵である昔、此山に寺あり稱名寺と稱へたのである、今は移されて五軒邸に在り所謂正明寺是なり、最も古刹にして儈道邃の閉基にかゝるなり。
元弘二年(1333)後醍醐天皇は北條高時の爲めに、隱岐の國に遷され給ふ、當時播磨の國司たりし赤松則村は大塔宮の令旨じて義兵を赤穗の白旗城に擧げ、攝津國摩耶山に據りて賊軍を擊破す、後十年貞範姫路を以て要害の地となし、初めて姫路山に四丁四方の地を劃し、稱名寺を他に移して城壘を築城す、これ姫路城の權輿である、併し今の姫路城より云えば當時の築城にかゝる建築物は一も認めず。

秀吉築城の大閤丸

織田信長秀吉をして播磨を討伐せしめたるとき、西播早く之に降る、秀吉は黑田職隆の子、孝高をして姫路城を守らしめ、播州三木城に別所長治を攻めて遂に之を下し、三木を以て根據の地となさんとす、孝高秀吉に告くるに三木は偏僻の地にして名将の居る所にあらず、姫路は中國の咽喉にして要害の地なることを以てす、秀吉この議に従ひ、赤松氏の城趾たる姫山に據り三層の天主閣を築く、後太閤丸といふ、今現に存在して歴史上重要部分を占む、秀吉が三木城を攻めて之を陷れたるは天正八年(1581)正月十七日にして姫路城に入りたるは其年の四月八日なりと云ふ、三重の天主閣を造りたるは翌九年にして置鹽城を取崩し其用材を姫山に集めて改築せしものである、當時の大工として従事したるは元京都出生の源兵衛、兼甚五郎、市兵衛の三人である、源兵衛は城北白國村の櫻井姓を襲き櫻井源兵衛と名乗る、姫路城を築きたるときの総棟梁なり、兼甚五郎は副棟梁にして後ち、源兵衛の跡を襲ふ、其末裔は連綿としてあり、後ち白國村より米田町に轉じ、目下は千代田町に住居す、其名を櫻井政治と呼ふ。
源兵衛棟梁として築城に従事し、城成るや柱稍々東南に傾斜す、一日妻を伴ふて城に登る、妻曰く城は立派に出來たが東南に傾き居るは殘念なりと、源兵衛曰く汝の如き婦人の眼より見ても斯く觀ゆる(観ゆる)やと、爾來鬱々としてまず、遂に八分の鑿を口に啗へ城頭より落ちて死せりと云ふ、清水門の傍に墓標あり、磨滅して文字を知り難きも昔より源兵衛の碑なりと云ひ傳ふ。

池田輝政の五層天守閣

慶長三年(1599)七月十三日太閤秀吉伏見桃山の城に薨去あり、同年秋關ヶ原の一戰に東照公利運の後池田三左衛門尉輝政少将に姫路を賜りて所領廿四万石參州吉田より入部せしめ播磨及び備前淡路を賜ふ實に慶長五年(1601)十二月である、本地八十七万石、翌年檢地あり百万石となる、當時姫山の東南近く、宿村、中村、國府寺村の三ヶ村ありしを他に移し、慶長十三年(1609)姫路城を五層の天主に增築す、同時に市街を改作し八十八の米字街を起し市内に総社、中之門、鵰、埋、市之橋、淸水、野里、久長、内京口、鳥居の十一門を設け、更に外廓には北條、飾磨、外京口、竹之門、備前の各五大門を築造し、大いに内外を警戒したり、結構壮大、規模始めて此時に備はりたるものである、輝政又城南に運河を掘る、中途にして輝政薨去す、世人之を三左衛門堀と稱ふ、堀の幅十七間のものを三段に掘り総延長約二十町の長きに及び其規模甚だ壮大である、盖し飾磨港と姫路市との運輸の便を圖らんがためなりしといふ、愛知縣豊橋市長大口喜六氏の談に豊橋市の規模今日あるは悉く池田輝政治世の時代に成る遺蹟なりとのことを聞ても、其如何に輝政の思想宏大にして經世家なりしかが想ひ遣らるゝのである。
爾來三百有餘年、本多、松平、榊原、酒井の諸候交々代りて城主たり累世修補を懈らす、維新廢藩後に至り逐年荒廢、此に於てか有志胥ひ謀り東奔西走、姫路城保存會なるもの興り、名城保存の要を唱道し、帝國議會の請願となり、政府は遂に國帑九萬圓を投じ修理の資に充て明治四十四年(1911)七月十五日工を竣ふ、内專ら堅牢を主とし、外装ふに 白堊 を以てし輪奐の美、昔に變らさることゝなる、唯惜むらくは俗に西の丸と唱へ歩兵第十聯隊火藥庫の在る部分が此の修繕より漏れたることゝとす、盖し西の丸は歴史上重要なる部分に属す、公衆の足を容るゝことを許ささる塲所なりといへとも、自然の崩壊に委するを遺憾とし、姫路市及姫路史談會は内務、陸軍両大臣に其修繕方を陳情中である。
累世の諸候中、本多、酒井の二候に對しては特書すへきことあり、本多忠政元和三年(1618)伊勢桑名城より爰に移る、忠政大いに城郭を修め、本丸、二の丸、三の丸を增築し、内濠、中濠、外濠を設け、石壁を固め、城門を改め、大にの面目を改む、船塲川を改修して舟揖を通じ、橋梁を架して往來に便したること是れなり、又酒井候は寛延二年(1750)正月十五日厩橋より移の命に接し姫路にせられ、明治二年(1870)土を還し同四年廢藩置縣となる其間百二十三年、累代諸候中の最も長かりものゆへ今日に在る姫路の内容は全く此時代に成れるものと謂ふべきなり、人目を驚かす土木工事は無しと雖とも(いえども)、人を治め家を整へ爰に秩序あらしめたるは全く此時代に在ること是なり。

姫路城の高さ

姫路城の大天主の外觀は五重にして、内容は七重なり、第一層は東西十五間、南北十一間、最上階は東西七間、南北五間なり、総高さ二十四間(内、石垣七間餘)にして、喜斎門の入口、平地より云へば、城の高は三十九間餘に及ふなり。
(参考)
名古屋城の第一層は東西十二間、南北二十間にして最上階は東西七間、南北九間なり、城の高さは土臺の下端より五重の棟上端まで、総高十七間四尺七寸五分にして、東ヶ輪地形より棟上迄は二十四間三尺二寸七分である、故に城の大きさより云へは名古屋城なりといへとも、高さに於ては姫路城を以て遥かに勝れりとす。

ーーーーーー(中略)ーーーーーー

姫路城概評

姫路白鷺城は本邦築城術の粋を集めたるものと云ふべく現存城郭建築の白眉と稱すべきものなり。固より城郭の規模に於ては江戸、大阪、名古屋等の諸城に及ばずと雖も、築城の技術に於ては此等の諸城を凌駕せる点少なからず。面して姫路城が本邦無比の城郭として其の特色を中外に誇示し得るは、其の天主閣附近の構造なりとす、盖し是本邦築城術の最高潮に達せるものと云う得べし。其天主閣の如き大小四個の天閣相倚て倨然たる一大天守閣をなせるものにて、此の如き複雑なる構造を有せる天守閣は姫路城を除いてはただ之を紀州和歌山城に見るを得るのみなり。故に此四個の大小天守閣と之を連絡せる多門長屋(圖中㋑)(或いは廊下)と更に内に包まれし中庭とはすべて状を改められざらんことを切望す。又  (下に続く)

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姫路城概評挿図|「姫路誌」姫路市役所編纂(明治45年/大正元年10月

この図を見る限り、図上の右(北腰曲輪)の櫓には名称が割り当てられていない。
「イ~ヘの渡櫓」は「多門長屋」とされている。また図下(西の丸)の「第十聯隊兵舎」と書かれた右の部分は、現在の「菱の門」の場所にあたるはずであるが、
その場所に「菱川」という川らしき土手?が書かれているのが興味深い。また「二の櫓(現在)」にも名前は書かれていない。本文中でも小天守を繋げ連立させている「イ~ヘの渡櫓(国宝)」にも、
この時代には名称は付けられていないように思われる。

此四個の大小天守閣と之を連絡せる多門長屋(圖中㋑)(或いは廊下)と更に内に包まれし中庭とはすべて状を改められざらんことを切望す。

天主閣に入るべき(圖中㋺)路が紆余曲折の妙を極め、殊に大天守閣の直下なる(圖中㊁)入口の如き其の防守の目的を遺憾なく發揮せるは注目を要する点にして、是れ亦本城が誇り得べき特色なるべし。故に此の天守閣に達する通路も路に當れる五個の(圖中㋩)小門と共に、形を失はしめざらんことを望む。以上は天守閣に關せるものにして姫路城中最も重要なる且又特色ある部分なりとす。次に本城の特色として見るべきは西丸(今火藥庫所在地)南面及西面の(圖中㋭)多門長屋にして諸地の城郭に多門長屋の存せること少き今日に於ては、是亦保存を要するべきものなるべし。殊に西丸周邊なる屏及多門長屋に穿たれし狭間(さま・銃眼)は種々なる形状を有し、本邦築城術の狭間の種類はすべて茲に(ここに)集められしかの觀あり、是吾人が西丸の破壊を悲む一理由なりとす。更に又た天守閣の東面下方に當れる所謂切腹塲と稱する建物並之に達する通路も本城の特色にふべきものにして亦保存を要するべきものなるべし。又本城の五層の天主閣は其外觀の壮麗なると、内部の堅牢なるとに於て本邦諸天守閣の模範と稱するも溢美にあらざるべし。若しただに物を保存せんとの考なれば保存を要すべきものは上述の如くにして足るものにあらず吾人はただ本邦城郭中最も特色あるものとして本城を歎美するもの故、此の見地よりして特に後世に傳へて(伝えて)武家時代の文化を記念せんため此の意見を述べたり、能ふべくんば全城を時のまゝに保存せんこと吾人の最も願ふ所なり。

姫路城の價値(価値)に關しては雑誌國華(本年一月號)誌上の拙稿「本邦城郭の美觀」並史學雑誌(本年四月號)拙稿。天守閣に對する論文を参照せられんことを乞ふ
ーーーーーー(中略)ーーーーーー

姫山公園

姫路城趾(歩兵第十聯隊兵營地を除く)全部と其背に當る(あたる)勢隱一帶(勢隠一帯)の地とを合せ約貮萬壹千坪(21,000坪)を陸軍省より内務省所管に移し、無料にて姫路市に貸付せらる、城趾は姫山に在り、其名に因みて姫山公園と名け、表門は東喜齋門よりとし、廻り廻りて勢隱しに出て、西して歩兵第三十九聯隊の裏手に當るを裏門とせり、大天主閣に登るは有料なるも、其他姥が石阿菊井戸(あきくいど、おきくいど)、腹切り丸邊は公開とし、勉めて俗に流るゝを避け、現在の有姿を保存することになり居るのである。

ーーーーーー(中略)ーーーーーー

正明寺(天台宗)

本尊は藥師如来なり、徃古僧道邃姫山に佛塲を開き、稱名寺と云ふ、其後赤松家、築城の際堂宇を他に轉せしめ、一時靑見川の邊に在りしが、池田輝政の時今の地に移轉す、本市に在りては最も古き寺となす。

ーーーーーー(以下略)ーーーーーー

(非賣品)
大正元年(1912)十月二日印刷
大正元年(1912)十月五日發行
姫路市役所編纂
姫路市下白銀町十四番地
印刷所 黒田文明堂
---
(出典)291.64-H458h 姫路誌 姫路市役所/編纂


本書籍は国立国会図書館にて公開されていますので、誰でも読むことができます。
(抜粋引用)国立国会図書館デジタルコレクション – 姫路誌

元号西暦表示の例) 慶長五年(1601) (1600/2/15~1601/2/2)

公開日:
最終更新日:2018/02/11

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

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