宝篋印塔〔石梁山 不動院/愛宕山大権現〕
姫路城内の石垣に転用されている宝篋印塔の石材は、
イメージではなんとなくわかるものの、
やはり実際の宝篋印塔の姿を見た方がイメージが沸きやすい事と思います。
姫路城から一番近くの場所で宝篋印塔が見られる場所は城の北西にある
「清水門跡」よりもう少し北西に進んだ「石梁山 不動院/愛宕山大権現」に遺されています。
姫路城からも近く簡単に現物(転用されたものとは異なる)を見ることができます。
概要(見出し)
石梁山 不動院/愛宕山大権現
「石梁山 不動院/愛宕山大権現」は、
「清水門跡」よりもう少し北西に進んだ場所にあります。地図では以下のような場所になります。
姫路城の方から進むとこのような正門が見えてきます。
公式のサイトは以下で確認する事ができます。
(公式)愛宕山大権現 – 不動院
入口には「不動院と池田輝政(現存姫路城を築城)」の関係についての説明文が掲示されています。
※全文は投稿の最後に書き起こします。
正門の左(南)側にひっそりと宝篋印塔が遺されています。
高さは2m前後といったところでしょうか。
保存状態もよく宝篋印塔とはどのようなものか?を知るにはとても分かりやすく、
近くにまで寄ってみることができるようになっています。
尚、公式のサイトでは以下のように紹介されています。
縁起
寛延二年(1749)の『村翁夜話集』に以下の記述あり。
小利木町白雲山長徳寺ノ愛宕大権現ハ山城国愛宕郡白雲山長徳寺ヨリ勧請
免許状如左今度貴坊境内へ當所本社愛宕大権現勧請被致度之旨神妙之至ニ存候依之此度衆徒中評義之上當寺内道場ニ代々令秘蔵御正体貴僧へ令寄附候左有上ハ真俗之神事諸事準本山之様式大事ニ執行可被致事衆評之旨依而執達如件
慶長十四己酉八月十二日 山城国愛宕郡白雲山長徳寺
長床坊
正覚院
播磨国飾東郡
不動院 雄誉老
其後元和三六月長徳寺境内へ移今ニ安置
これにより、不動院の雄誉が愛宕山大権現は慶長十四年八月(1609)に山城国愛宕郡白雲山長徳寺より勧請したものであることがわかる。この時点で不動院は惣社地内にある。またこの年は姫路城完成の年でもある。池田輝政公が熱心な愛宕信仰者であったことを考え合わせると城の完成にあたって信仰する愛宕山大権現を城域内に勧請させた可能性も浮かび上がる。
ところで、不動院境内を調査したところ元和二年(1616)建立の宥誉(雄誉)阿闍梨の宝篋印塔が発見された。
(抜粋引用)愛宕山大権現 – 不動院
宥誉(後の天宥)とは人の名で、羽黒山の第50代別当を指し示していると思われます。
また羽黒山の第50代別当への就任が寛永7年(1630)とされていますので、
それ以前まで、不動院で宥誉(雄誉)は別当を務めていたということではないかと解釈しています。(私の勝手な見解)
その証としてこの宝篋印塔が建立されたということでしょうか。
※お詳しい方がおられましたらご教授ください。
江戸時代の羽黒山について
関八州、信越、東北における修験の大道場として隆盛を極めた羽黒山であるが、鎌倉末期から戦国時代にかけては、朝幕の攻防戦および諸豪の勢力争いに巻き込まれ、その余波によって一山衆徒の結束が弱化し、社領が狭められた。こうした中、関が原の戦いに戦功のあった最上義光(よしあき)が、かつて武藤氏と戦って占領した庄内の地を再び領有し、江戸時代を迎えた。
このころ羽黒山の別当職(一山の政務を統括)にあったのが、武藤氏の流れを汲む慶俊だった。義光は、慶俊に代ってその弟子宥源を別当に据え、荒廃した羽黒山の再興に着手した。失った社領の一部回復や、羽黒本社の修造、神橋の架け替え、五重塔、黄金堂などの修復事業などがその業績として今に伝えられる。
慶長19年(1614年)に義光が没した後、最上家は、生前から続いていた家督後継の争いのため元和8年(1622年)改易に追い込まれ、五十七万石が一万石に減封された。これにより、鶴岡十四万石酒井忠勝が庄内を領有するところとなり、羽黒山は、再興の望みを託した大檀那・最上氏を失った。
当時の別当は、元和3年(1617年)68歳の生涯を閉じた宥源の弟子宥俊だった。宥俊は、宥源の御影堂や普賢堂などの建造、開山堂の修造、五重塔の屋根葺き替えなどの業績を残すほか、羽黒山内の杉や松の植栽に力したと伝えられる。寛永7年(1630年)、宥俊は、51歳の時に別当を弟子宥誉(後の天宥)に譲り、自らも山内にあって一山の宗政を統括する執行職に就いた。
宥誉(天宥)と天台への改宗について
若干25歳にして第50代別当となった宥誉は、宥俊の後見を受けながら羽黒山の再建に取り組み、宥俊の歿後は執行も兼務した。宥誉は西村山郡川土居村(現在の西川町)の安中坊の出と見られ、7歳にして宥俊に師事したと伝えられる。
寛永11年(1634年)、宥誉は、羽黒山ひいては出羽三山の再建を願い、師の宥俊同道にて三代将軍家光に謁見した。これは、徳川家が天海僧正を崇敬して天台宗に帰依したことに鑑み、幕府の御墨付のもと、真言の宗風にあった出羽三山を天台宗に改めて東叡山寛永寺の末寺となることを画したものだった。宥誉は、寛永18年(1641年)この大願成就を期して天海の弟子となり、師の一字を貰って名を「天宥」に改めた。
(抜粋引用) 出羽三山について
また、別当とは「社僧の長のこと」とされています。
別当寺
別当寺(べっとうじ)とは、専ら神仏習合が行われていた江戸時代以前に、神社を管理するために置かれた寺のこと。神前読経など神社の祭祀を仏式で行い、その主催者を別当(社僧の長のこと)と呼んだ[1]ことから、別当の居る寺を別当寺と称した。神宮寺(じんぐうじ)、神護寺(じんごじ)、宮寺(ぐうじ、みやでら)なども同義。
(引用)別当寺 – Wikipedia
阿闍梨は僧侶をさす僧職を示すとされています。
阿闍梨(あじゃり)
サンスクリット語 ācāryaの音写。師匠の意。文字どおりの意味は,伝統的な正しい態度,習慣や,確定された規定などを知り,保ち,実行する人の意。師を意味するほかの言葉グル guruに比して非常に古く,『アタルバ・ベーダ』にすでにみえる。上級カーストの少年になされる入門式,およびその教育の期間に指導教育するバラモンが,こう呼ばれた。仏教においても同様で,精神的な指導をする僧侶をさし,特殊な場合は戒を授ける師をさす。日本では僧職の一つに用いられる。
(抜粋引用)阿闍梨(あじゃり)とは – コトバンク
この宝篋印塔自体は文化財として登録されているわけではありませんが、
それでも1616年建立(408 年前)という事ですから長い歴史があるものだと言えます。
姫路城が完成した1609年(415 年前)とほぼ同じ年月が経過しています。
それでこの保存状態ですから立派なものだと思います。
尚、宝篋印塔の前にある石板に関しては「仁王尊寄進者芳名録」とありますので、
宝篋印塔とは関係はないようです。
「仁王尊」は最初に「正門」として紹介した門自体をさしているものと思われます。
左右に仁王様が祀られています。
以下に、案内板の全文を掲示しておきます。
2
池田輝政公と不動院・愛宕山大権現
池田輝政公は『名将言行録』等に「気度宏大、為人沈毅剛直、寡欲にして大略あり、夙に天下に志を有す」とされている。かねて輝政の大志を知っていた徳川家康は輝政の薨去にあたり、「死んだか、不便なことをした。惣別愛宕などせせって、天下はとれるものぢゃない」と述べたことが永井直清(1591-1671)の『永日記』に記されている。また元禄十六年(1703)の『遺老物語』には「永禄元年(1558)春、尾州楽田の城主その城中に高二間余に壇ををつき、其上に二階の矢倉をたて八幡宮、愛宕権現を祭りて敵を防ぎたるにより、諸方にも聞き及びて、之をつくり信長にいたりて甚大なりし事、江州安土の殿守其濫觴と云々と見ゆ」とあるように、尾張楽田城の殿守(天守)には、八幡大菩薩、愛宕山大権現を勧請している・。また、同書に諸国の城でもこの殿守の図を写させ、これを模倣して築いていたとの記録がある。このように織田家の諸将と愛宕山大権現の関わりは深い。
美濃池田家の始祖池田恒利は滝川貞勝の息子とされ尾張の織田信秀に仕え、その妻・養徳院が織田信長の乳母となっている。その子の恒興は、信長の下で戦功を立て、信長の死後は羽柴秀吉に仕え美濃国大垣城主十三万国を領した。恒興とその嫡男の元助は小牧・長久手の戦いで豊臣方につき討ち死にする。しかし、恒興の次男輝政は逆に徳川家康に接近して娘婿となり、以降池田家は外様でありながら徳川家一門に準ずるある会を受けるなど破格の待遇を受けるようになる。関ケ原の戦いでも徳川方につき戦功をにより播磨五十二万石を与えられ姫路藩主となる。不動院に関連する姫路池田家の歴史を振り返ると次のようになる。
慶長五年(1600)池田輝政公姫路に入封。
慶長六年(1601)城の改修を始める。
慶長一二年(1607)山野井男山(当地)に龍峯寺を建立
慶長一四年(1609)姫路城を完成。・この年八月、城域内惣社にあった不動院の第六世宥誉(雄誉)が山城国愛宕郡白雲山長徳寺より愛宕山権現を勧請。池田輝政公が熱心な愛宕信者であったことを考えると、城の完成にあたって信仰する愛宕山大権現を城域内に勧請させた可能性がある。
慶長一八年(1613)池田輝政公薨去 遺骨を龍峯寺に埋葬し名を国清寺と改める。
元和二年(1616)池田利隆公薨去 山野井国清寺に埋葬・愛宕大権現を勧請した不動院宥誉もこの年に遷化。不動院境内に宝篋印塔あり。
元和三年(1617)池田光政公鳥取へ転封
・愛宕大権現が長徳寺へ移る(当院裏の男山中腹)
元和四年(1618)本多忠政公国清寺を船場本徳寺へ移築時を経て明治三年(1870)神仏分離のため不動院が惣社からこの地に移り今日に至っている。
この「不動寺」まで来たのであれば、すぐ裏は男山になります。
姫路城のビュースポットとしても人気ですので、ついでに行かれるといいかもしれません。
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